第1章

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私は慌てて片手で口を覆った。 目を細める羽山の瞳が茶色く光る。 「先行ってます、先輩はどうぞごゆっくり」 ぽん、と頭に手が触れた時、カチャリとカフスが時計にあたった音がした。 「……」 身体が熱い。 暑いのは、気温のせいだけじゃない。 額に滲む汗を手の甲で拭った。 「祇園祭みて行きますか?」 「……ううん、人混み苦手」 「そう言うと思いました」 よく冷えたタクシーの車内でお互い外に目を向けながら言葉を交わした。 東京には時間通りについた。 「お疲れ様でした」 「お疲れ様」 何事も無かったかのように別れた。 家に着いて残り少ない休日を過ごす。 洗濯と料理をしたらもう夕方だ。 お風呂にゆっくり入ろうと洗面所で服を脱ぐと鏡に裸の自分が映った。 首筋も背中も胸元もなんの跡も残っていない。 だけど、羽山の触れた指先の感覚が首筋にも背中にも胸元にも蘇ってくる。 湯船に体を沈めてシュワシュワ泡をたてて小さくなるバスボムを見つめる。 羽山は優しい手つきで 強張った私の身体をほぐして 唇で甘く酔わせた。 驚いた。 羽山があんなに優しく女の人を抱くなんて思ってなかったから。 でも 結局一度も私の唇にはキスを落とさなかった。
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