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紫煙が室内で掻き消えた。如何に空気が滞留していたとしても、やがてそうなるのは当然の理である。それと同じ位、碓井は何でもない風に口を開いた。
「こんな仕事してれば、わけの分からん事件の一つや二つあるさ。服部、お前は現場は初めてか?」
「いえ、二件目です」
「そうか。なら運が悪かった、な。犬にでも噛まれたと思ってこんな事件、さっさと忘れちまうと良い。何なら今夜、一緒に呑むか?」
そう言って、杯を傾けるジェスチャーを取る碓井に服部は浅薄な正義感を逆撫でられる。どうして、そんなことが言えるのか。そんな沸点の低い思いを見透かしたのであろう。碓井は吸っていた煙草を指揮棒か何かの様に服部に突きつけて笑った。濃厚な匂いと刺激が粘膜を襲い、服部は思わず咳き込んでしまう。彼は身体が虚弱な部類であった。
「悪い悪い。煙草、駄目だったか? まぁ、それは兎も角として。お前のその考えは大切だが、なら猶更此の件からは身を引いた方がいい」
「……どうして、ですか」
咳き込みながらでは、どうしても此の様なぶっきらぼうな返答しか出ない。碓井は煙草を携帯灰皿へと押し込むと、服部の復帰を待った。煙草の残り香がまだ残っていたけれど、服部は何とか呼吸を整える。
「そりゃあ、戻れないからだ」
「戻れない?」
「そうだ」
百円ライターに火を点けたり消したりと弄びながら、碓井は何か遠くのものが其の火に映っているかの様な寂寞の視線をそれに送る。纏わりつく残り香までもが一つの未練を形成していた。
「こんな事件一つに拘泥する位なら、何でもない殺人事件を三件解決した方が善いに決まっている。でもなぁ。でも、そう。此れはもう復讐なんだ、戻れないんだよ。戻れない所まで来てるんだ。うん、戻れない」
昆虫が顎を鳴らして発する威嚇音の様に頻りにライターは点火を繰り返す。火が点かなくなっても、それが止むことはなくただ虚しく鳴り響いていた。碓井は見入る様に、或いは魅入られた様にそれを見ながら、そして何か別のモノを視ていた。何か悍ましいものに語りかける様に恐る恐る服部は彼の名を口にする。碓井は、それを引き金に現実へと引き戻された。
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