囚われし者

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碓井は赤信号で車を止め、引っ切り無しに更新される携帯の履歴を見る。其の全てが上司からであった着信履歴を一旦全て消去し、彼はマナーモードを運転中モードへと切り替えた。これでもう、邪魔な着信は来ない。 ホームボタンを押して待ち受け画面へと切り替える。そこに映っていたのは髪がまだ全面黒々しく若い彼と、それに寄り添う様にして、赤子を抱きながら佇む女性とが景勝地で撮った写真。もう、それが何年前の写真なのかを彼は思い出すことが出来ない。ただ、彼はそれを見る度に呪詛の様に其の二人の名前を、生きていれば妻と最愛の娘だった人間の名前を繰り返すのであった。 彼は鮮明に覚えている。娘と共に行方不明になった彼の妻が、その娘と共に、餓死した状態で、全く関係のない山中のコテージで見つかった時のことを。司法解剖の結果、妻が最期の最期まで娘に食糧を融通し続けたと知った時の遣る瀬無さを。彼はそれを昨日の事の様に思い出せる。 其の時の彼は、まるで無力であった。 だが、今は違う。今の彼は全く同じ手段で、いや、よりスマートに人を殺せる。わざわざ遠くに足を伸ばした甲斐もあったというものだ。御蔭で、手筈は整ったと言ってよかった。彼はダッシュボードへと仕舞い込んだ、ハンディサイズの黒装丁の本へと視線を移す。 「ヒヒヒヒヒ、――アーッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハァ!」 死んでいる様に生きていた彼の魂に火が灯り、溢れんばかりの耳障りに甲高い哄笑となって具現化する。そして、それは不意に止んだ。目は爛々と光り、口角からはだらしなく涎を垂らしている。陶酔していた。もし下手人を捕えたらどうしてやろうか。引き裂いてやろうか。燃やしてやろうか。辱めてやろうか。或いは其の全てを気の向くままに慈母の顔にて施してやろうか。それを考えるだに、彼は此の笑いを堪えられないのであった。 その陶酔。まだ顔すら知れぬモノへの嗜虐。其の全てが唯一つの例外なく狂気に囚われていた。閉じ込められていた。 「殺してやる……絶対に、仇を取ってやる。復讐だ。復讐してやるんだ……美代子(ミヨコ)、美考(ミコ)、俺は殺るからな。その為だったら」 何だって、やってやる。 もう戻る事の無い彼の車は青信号と同時に再び走り出す。 其の行方を知る者は、誰一人として居なかった。
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