囚われし者

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遥か上空で、鳥が鳴いていた。 そのやけに間延びした甲高い鳴き声は一体何の鳥のものであったのか、彼はそんな事知らなかったし知る由もない。 ただ一つ言える事としては、其の鳥が間違いなく、『生きている(アライヴ)』という、ただ其れのみであった。その鳥は決まって、西日が差して紅に空が染まる時間帯になってから鳴き出す習性がある。 彼は、夕焼けの空でも見ようかと腰を上げかけた。しかしそれは結局せずにラベルの貼られていないペットボトル入りのミネラルウォーターで口を湿らせ、その死んだ様な目を改めて正面の壁に向ける。それは奇しくも現状を直視する形となったがその認識は或る種正しく、そして或る種誤謬であるという事が出来た。 その、小さな机を挟んだ先にある有り触れた白壁には正の字が描かれていた。一つではない。何個も、何個も。大きいものから小さいものまで、それは歪に、しかしながら整然とあろうとした意志だけは感じ取れる程度に真っ直ぐ縦に並んでいた。 彼はそのn+1番目、三画目まで書かれた正の字を手慰みに右手の親指を血が滴る程に強く強く噛み締めながら凝視している。其の目は恨みがましく血走っていた。彼は現実を直視したかったのではない。今の彼には、現実しか、見るものがないのであった。やがて噛み締めていた右手親指から血が滴り落ち始める。何処にどう、力を入れればそれを効率よく噛み千切り、且つ痛みを抑えられるか。図らずもそんなコツを掴んでしまった彼は日が落ち切るまでには親指を血に染める事が可能になっていた。鼻息が自然と荒くなる。自分のそんな獣性を客観視して視界が涙の膜で覆われた。 彼は揺らめきながら立ち上がる。蓋を開けたまま床に置いていたペットボトルが倒れ、其の透明な内容物をフローリングの床にトクトクと漏出させるが彼はそれを些事であると認識して正面の壁へと頼りない足取りで向かった。最早彼に正常な判断能力を期待する事は酷であると言える。一滴一滴、酩酊した様な足取りに従って床に血が滴った。水面は綺麗に広がるが、彼がテーブルを避けるべく取った進路によって左足が突きこまれ偏円は呆気なく崩壊する。 そうして彼はより間近で臙脂色の正の字を捉えた。そして一切の躊躇いなくその中途、最も新しい、生乾きの三画目の正の字に力強く四画目を書き加える。 言うまでもなくその塗料とはそれに至るまで例外無く悉く、彼の鮮血であった。
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