囚われし者

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そう。夢――であった。其れは何度も見た懐かしい夢かも知れなかったし、或いはそうでなかったかもしれない。今が一体其処に居て、どれ位経ったかという事は彼には最早考える能力なんて残されてはいなかった。崩れ落ちる様にして意識を失って、そう。其の間に何かをしていた様な気もしたのだけれど、それが現の事か、或いはそうでないのかという事はすっかり闇の支配していた室内にあっては判然としていない。彼が凭れる壁面はグラフィティアートの様相を為すかの如く乾いた紅が描き殴られ、其の塗料となったのであろうものが絶える事なく親指から染み出ていた。 観察。 不意に思い出された其の二文字の孕む不快感に拠って込み上げてきたものが、血臭に饐えた酸味を加える。一度ならず何度でも周期を持って水気のある噴射音が部屋に独唱した。 観察、観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察観察、観察! そうだ、此れは、観察。閉じ込める事で何かを得ようとしたんじゃない。――閉じ込める事その物が、其れ自体が、目的なんだ! 嫌悪の念が、怒りの渦が、そして何よりもこれを可能にした何かへの畏怖が綯い交ぜとなった想いはしかし言語化される前に灼かれた喉に引っ掛かり、盛大な咳となって空費される。身体の全てが裏返り、其の裡に在るものを逆流させるかのような熱が全身を冒していた。その余波で肌がチリチリと痛む。目の奥で極彩色の泡が嘲笑うかの様に、音を立てて破裂する。 どうしようもなく、それは不快だ。 鳥が高く、鳴いていた。 彼は、野獣の様な咆哮を上げて己の喉に両手を宛がった。其の身体の何処かに居るモノの嘲笑う声を止めないと自分が自分で居られない様な恐怖と焦燥が彼を突き動かして掻き毟らせて自壊衝動が、人間誰しもが、刃物を持った時に一度は空想したであろう、原初的欲求が、――『囚われしモノ』が大手を振って、溢れ出す。 何かが千切れ、破裂する音が響いた。 彼は狂笑する。全身からあらゆる液体を噴出させながら、彼は其の末期まで高らかに笑っていた。其の両の目には何が映っていたのだろう。彼はそう、何かを視たのだ。何か醜く、悍ましく、それでいて我々に似た恐ろしい、何かを。 だが。 ソレが何なのか伝える事は遂に叶わず、やがて彼の意識は紅(ルージュ)へと堕ちた。
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