それはある春の日でした。

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 婆さんが壁へ向ける独白に、俺は頭を抱えるしかない。掴んだ髪がギシッと鳴いた辺りで、担当医が苦笑いを浮かべながら擦り寄って来た。 「終始この調子です、困ったものでして」  困ったのはこっちだ、人の妄執ってヤツは時に死んだ人間すら引き留めちまう。  婆さんの傍らで、綺麗な顔した想い人さんが俺に助けてくれと言わんばかりに視線を向けてくる。  ×されたって愛しいか、健気なもんだ……。 「婆さんが正気に戻ったら伝えてくれ、想い人さんはすぐ傍に居るってよ」  婆さんがなんでイカれちまったか、そんなもんは婆さんに聞けば良い。  想い人さんの哀れな姿にやられたか、×しちまった後に気付いちまったか。どっちだって構わない。  想い人さんの言葉に婆さんは聞く耳を持たないだろうし、かと言って婆さんに引き摺られる想い人さんを引き剥がすだけの力も俺には無い。  単に人よりそういうもんが見え易いだけたからな。  ムカつくくらいよく晴れた真夏の日差しは、冷房が効いた部屋でも俺を焼いて。とっくに脱いでいたスーツね上着を担いで婆さんに背中を向ける。  幽霊だなんだと下らない、本当に怖いのはあんただよ、婆さん。  俺の背中に纏わりつく想い人さんの視線は、精神病院を出ても続いたが。婆さんが死ぬまであと少しだろうよ、今更待てない長い時間でも無いだろう。  俺は車に乗り込んで、エンジンを吹かしアクセルに足を置いた瞬間。真横から感じた強烈な視線と殺気!?  俺が横を向いたと同時に、勝手に足が――マズイ!?  顔の焼け爛―た――こ―― (了)
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