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自転車に乗って家を出た数十分後、私は剣道場の扉の前に立っていた。
ゆっくりと扉を開ければ、そこは昨日と違って静まり返っている。
その沈黙の中に溶け込むように佇む人物が視界に映る。
「…総。司…さ、ん」
無意識のうちに自分でも知らない人物の名を口にする。
「悠…輝?」
私の存在に気付いたその人物が、私のほうへと視線を向け、初めて会ったときにも言っていた。
私じゃない別の人の名前を呼ぶ。
驚いたように見開かれた目が、揺れていた。
「あ…沖浦先輩。おはようございます」
ハッと我に返り道場に立ち尽くす人物…沖浦先輩に挨拶をする。
「……」
「先輩?どうしたんですか?」
挨拶をしても呆然と立ち尽くしたまま動かない先輩を不思議に思って近づく。
「あ、いや…うん。ごめん、なんでもないよ…おはよ。悠ちゃん」
ようやく昨日見たような先輩の表情に戻り、先輩は昨日と変わらない笑顔を私に向けた。
「早いね。朝稽古?」
「はい。沖浦先輩もですか?」
「うん。僕の日課だからね…それに、剣道やってる間は悠輝に会える気がするから」
「え?」
ポツリと呟くようにして呟かれた言葉が聞き取れず、私はとっさに聞き返す。
笑顔が、少しだけ寂しそうに曇った。
「なんでもないよ。あ、よかったら手合わせでもする?」
「え、いいんですか?」
「もちろん、可愛い後輩のためだからね」
「よろしくおねがいしますっ」
そうして私達は沖浦先輩の提案で、打ち合いをすることになった。
ある程度の準備運動や精神統一を済ませて防具をつけ道場の真ん中で先輩と対峙する。
ピリピリと刺すような殺気が私の肌を刺激する。
初めてするはずの沖浦先輩との打ち合いに私は何故か、懐かしさを感じていた。
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