ターフの忘れ物

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全盛期を過ぎたと言われ引退も考えていたとある騎手は最近、奇妙な夢を見た。 夜の東京競馬場に一人。明かりと言えばスタンドから見た向こう正面に見える中央高速道だけ。ほとんど真っ暗である。 どこからかファンファーレが聴こえる。 そして白の染め分け帽を被った男を背に乗せてあるはずの無いゲートに向かって歩く栗毛の馬を彼はじっと見ていた。 ゲートの設置場所を見るにおそらくは2000mのレースが行われるのではないか、と彼はなんとなくだがわかった。 見覚えのある目をしている。その上、彼はこの馬の背中を知っている気がした。 ゲートが開く。その馬は力強く芝を蹴り出し前へ前へと進んでいく。 足音が一人の競馬場を包み込む。彼はこの馬には大歓声が似合うとも思った。 追いかける者は誰もいなかった。その栗毛は黙々と鞍上を信じて走っている。 1000mの通過タイムは57秒。通常、このぐらいの距離でのおおよそのタイムは60秒程度である。 それはまるで飛んでいるようだった。 秋の夜風が彼のコートと第3コーナー付近にある大きなケヤキを揺らす。 彼は遠い昔、ただ乗っているだけで広い視界を見せてくれる馬に乗っていた。 響くのは自分の足音だけ。後続を20馬身も突き放す彼の馬のことを当時の人は天馬だと言った。 同時期のライバルホースを軽々と蹴散らし、いよいよ迎えた秋の天皇賞。彼は円熟期に突入していたその栗毛の逃亡者ーーサイレンススズカに対して何の迷いもなかったのを覚えている。 逃げは孤独だ。誰もいないターフをただただ走るしかない。 あの日曜日の午後もサイレンススズカは何も変わらず駆け抜け、そして13万を超す大歓声の前で散った。過度の負荷がかかった前脚は粉砕骨折だった。 響き渡る悲鳴、勝ち馬がゴール板を駆け抜けてもやまないどよめき。 ものすごい速さで走っていた彼は鞍上の男を振り落とすことなく、彼を庇うかのように立ち止まった。 振り落とされていたら彼も軽傷では済まなかったはずである。 前脚を痛々しく庇う彼を鞍上の彼は落ち着け、と声を掛けることしかできなかった。そのことを彼は悔いていた。 (庇ってくれたおかげで俺は生きている)
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