ターフの忘れ物

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暗闇を裂くように栗毛の馬体は大きなケヤキを通り過ぎた。脳裏にはあの日彼が躓いた瞬間にぶれた視界が浮かぶ。 いつもは冷静な彼が珍しく手に汗を握っていた。そして、いてもたってもいられなくなり大きな声で叫んだ。 「スズカー!生きろー!!」 無人の競馬場にこだまする彼の声。第4コーナーの手前、彼は見ることのできなかったまっさらな直線を前にしている。 遠くからでは見えなかったのだが、彼の身体はうっすらと透けている。残り距離を示すハロン棒が見えていた。 鞍上の男の鞭がうなる。彼は壊れた脚で綺麗なままの芝に深く踏み込んだ。 残りの200mは何か別の生き物を見ているかのようだった。1000mを57秒で駆け抜けたとは思えない豪脚を見せつけ、彼はあの日目指したゴール板を見事に駆け抜けた。 鞍上のガッツポーズ。彼は我を忘れて馬場に向かって走り出した。 予後不良とは突然やってくる。彼のように世界を変えようとしていたその瞬間だろうとも容赦はしないのだ。 騎手は今までに乗っていた相棒が散っていく様を見ることよりもつらいことはない。 彼は13万の悲鳴を背に稀代と言われた自分の相棒が運ばれていく姿を忘れることなどできるわけがなかった。 どうしようもなくなった鞭を右手にターフのど真ん中に呆然と立ち尽くすことでさえもつらかったのだ。 突然掲示板に映される1分55秒0、さらに赤いレコードという文字。走り切ってさえいれば彼は……。 彼が馬場に辿り着いた時、サイレンススズカはもういなかった。 しかし、彼はさっきまで動いていなかった場内掲示板を見て、サイレンススズカの映像を見て、初めて笑った。 高速道路と掲示板の明かり、それとどこからともなく聞こえる力強い足音、そして足枷の外れた男。 忘れ物を取りにきた栗毛の逃亡者が開いた道は200mでは終わらない、長い長い金の芝生だった。
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