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「馬を下げろ! 兵を退け!」
風が、怒号を運ぶ。
広野での合戦だ。数十の兵が、指示に従う。完全に撤退だ。鐘が鳴る。何度も何度も鳴り響く。上空は、異様な雰囲気に包まれていた。
「退け!」
叫ぶ。誰かが、叫ぶ。馬が嘶く。兵士の足音と悲鳴が轟く。
戦場に現れた、異端の生物が、空中より吐き出した焔は、めらめら音を立てて広野を焼く。
煙りは、たちどころに空に舞い上がり、逃げ惑う兵士を、馬を、死体を、悉く、包み込んだ。
鐘が鳴る。敵も味方も脅威的な存在を前に我を忘れる。
虚空を陣取る真っ赤な鱗を持つドラゴンが、容赦なく焔を降らせる。
広野の向こうに住んでいるはずのドラゴンは、二枚の羽根を震わせて、風を巻き起こして人々を追い立てる。巨体が、砲口をあげると世界は軋んだ。
「レッドスノー」
アメジスト色の瞳は、ドラゴンを捉え、呟いた。
逃げる兵士に押し負かされながら、血に染めあげられた軍服の釦を握る。爪が、手に食い込むほど強く握り締めて、ドラゴンを見上げる。
レッドスノー。紅雪とは誰が付けたか、そんな昔話は、兵士の知識にない。
「馬鹿、立ち止まるなっ」
仲間のひとりに腕を捕まれ、やっと現実を見る。
「いくぞ、広野を抜ければ、魔法使いが守ってくれる!」
「魔法使いか……、奴等を信じたことはない」
クェトラは、仲間の手を振り払う。
「死ぬ気か!」
仲間が呆然と呟く。呟きも強く言えば、中身は違うらしい。
「死ぬ気だ!」
クェトラは、突き刺さる弓を抜き、構えた。魔法使いに命乞いをするならば、この場で朽ち果てたほうがいい。魔法使いは、守ることを対価に膨大ななにかを要求する一族だ。クェトラは、そんな魔法使いが嫌いだった。
焔は、クェトラを取り巻いて、熱を発する。仲間は、怖じ気付いたように逃げ出した。
クェトラの皮膚や髪が、ちりちりと焼ける。額から流れた汗が、滴り落ちる。息苦しい世界に取り残されたクェトラは、レッドスノーを見詰めた。
これは、天変地異の前触れだ。
――わかっていた。
レッドスノーの封印を誰かがほどいた。それだけのことだ。それが、世界に解き放たれた。
クェトラは、空を見上げる。その背中に見えた少女に、クェトラは目を奪われた。
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