第1章

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「葉子の名字」 七月  真夏の夕方は、日中の暑さを吐き出していた。アスファルトの熱、西日が乱反射するビルの窓、エアコンの室外機からの排気。雨でも降れば、暑さがリセットできるけど。  一人の幼い少女が、フラフラと千鳥足でスーパーマーケットに入ってきた。少女は日中の暑さで体力を奪われていたが、店内はクーラーが効いているので少し回復した。ベーカリーコーナーから漂う、バターの焼ける香ばしい狐色の匂いに誘われた。  ベーカリーコーナーには、トレイに何種類ものパンが並べられている。少女は自分の手の届く下の段のパンを取って、食べ始めた。  ベーカリー専用のレジにいた女子大生アルバイトが気付いて、少女に近づいてきた。 「お嬢ちゃーん、このパンは売り物だから、勝手に食べちゃダメだよ」  幼児相手にパン一つで目くじら立てても仕方がないので、店員は甘い声で注意した。少女はみつかっても動じずに、キョトンとしていた。 「ママはどこにいるの?」  少女は答えなかった。女子大生はバックヤードから同僚を呼んで、迷子案内の手配をお願いした。 「迷子のお知らせを致します。幼稚園児くらいのお年の、青いワンピースを着た女の子が、お父さんお母さんを探しています。お心あたりの方は、一階の正面玄関の案内所までお越しください」  何時間待っても、誰も迎えに来なかった。  水上(みなかみ)アカリは幼い頃からサリヴァン先生に憧れていた。教育大学を卒業して、特別支援学校で働き始めて四年目だ。  一学期の終業式。窓から見える空は真っ青で、活力に満ちていた。セミの声よりも元気な生徒達の声が、教室から響いている。 アカリは少しおしゃれをしていた。 いつもはTシャツにスエット、ひっつめ髪にすっぴん、眼鏡。連日の残業でくたびれた顔をしていた。仕事を始めてから十キロも太ったので、独身なのに二人の子供を産んだお母さんのような体型だ。「あの先生も当時二十代だったんだよな」と大人になって思い出すタイプの雰囲気だった。 今日はスカートを履いて、髪を下ろし、化粧もしていた。学生時代に着ていたお気に入りの服を引き出してきて、サイズがちょっとキツイけど、少しだけ若さを取り戻した。 「水上先生お疲れ様」
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