伝わるもの

6/20
前へ
/44ページ
次へ
「それです。彼はベートーヴェンを崇拝していた。ベートーヴェンもシューベルトの才能を認めていたようです。しかし、直接的な師弟関係には至っていない」 「そうなの? どうしてかしら? 弟子にして下さいって言えば良かったのに」 「芸術の世界では有りがちな事です。シューベルトにとってベートーヴェンは雲の上の存在で、畏れおおくて気安く近づけなかった。同レベルなら緊張せずに談笑もできたでしょうが」 マスターはカウンターにシェイカーを置いた。 「ああ、それはね。わかるわ。社長とでは何を話していいのか分からない。同僚となら気安く雑談できる。親友なら居酒屋で愚痴も吐ける。そういう事でしょ?」 「ははは……それとは少し違いますが、似たようなものかも知れません。ベートーヴェンが亡くなり、彼は、ようやく棺の傍で涙に暮れています」 「そうだったの。シューベルトって遠慮ぶかいのね。マスター、おかわりをお願い」 「はい、どうぞ」 叶恵の前にカクテルグラスが置かれ、マスターはシェイカーを傾けて注ぎ入れた。 「えっ? もう? これって私の為に作ってたの?」 叶恵は驚いてマスターを見上げた。 「その後、シューベルトは遺作となる歌曲集『白鳥の歌』に取りかかります。これは詩人の書いた詞に曲をつけたもので、セレナーデは、その中の一曲です」 「ええっ? ということは……日本の歌謡曲と同じなの?」 「そう。歌謡曲の原型です。セレナーデは最初、シューベルトを支援してくれた質屋の娘エムミーの為に書かれたのです」 「あらまあ、シューベルトにも恋人が居たのね?」 「誰にでも恋の相手は居るでしょう。セレナーデとは小夜曲と訳されます。窓辺の下から恋人へ呼びかける歌なのです。詩の内容がです。甘やかな調べになるのは当然です。しかし、彼は貴族の娘の家庭教師もしていた。6年ぶりに再会した少女は魅力的な女性へと変貌を遂げていた」
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!

25人が本棚に入れています
本棚に追加