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「それです。彼はベートーヴェンを崇拝していた。ベートーヴェンもシューベルトの才能を認めていたようです。しかし、直接的な師弟関係には至っていない」
「そうなの? どうしてかしら? 弟子にして下さいって言えば良かったのに」
「芸術の世界では有りがちな事です。シューベルトにとってベートーヴェンは雲の上の存在で、畏れおおくて気安く近づけなかった。同レベルなら緊張せずに談笑もできたでしょうが」
マスターはカウンターにシェイカーを置いた。
「ああ、それはね。わかるわ。社長とでは何を話していいのか分からない。同僚となら気安く雑談できる。親友なら居酒屋で愚痴も吐ける。そういう事でしょ?」
「ははは……それとは少し違いますが、似たようなものかも知れません。ベートーヴェンが亡くなり、彼は、ようやく棺の傍で涙に暮れています」
「そうだったの。シューベルトって遠慮ぶかいのね。マスター、おかわりをお願い」
「はい、どうぞ」
叶恵の前にカクテルグラスが置かれ、マスターはシェイカーを傾けて注ぎ入れた。
「えっ? もう? これって私の為に作ってたの?」
叶恵は驚いてマスターを見上げた。
「その後、シューベルトは遺作となる歌曲集『白鳥の歌』に取りかかります。これは詩人の書いた詞に曲をつけたもので、セレナーデは、その中の一曲です」
「ええっ? ということは……日本の歌謡曲と同じなの?」
「そう。歌謡曲の原型です。セレナーデは最初、シューベルトを支援してくれた質屋の娘エムミーの為に書かれたのです」
「あらまあ、シューベルトにも恋人が居たのね?」
「誰にでも恋の相手は居るでしょう。セレナーデとは小夜曲と訳されます。窓辺の下から恋人へ呼びかける歌なのです。詩の内容がです。甘やかな調べになるのは当然です。しかし、彼は貴族の娘の家庭教師もしていた。6年ぶりに再会した少女は魅力的な女性へと変貌を遂げていた」
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