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「そう怒るなよ。そうだ、昼にはS県に入るから、昼飯に鰻でも食べよう」
何故か激怒した恋人に、亮平は気後れした様子で切り出した。
が、言われた宏美にしてみれば、あからさまに食べ物で釣ろうとするその幼稚さに、呆れて物が言えない心境になる。
と同時に、子供じみた恋人に対し、いつまでも怒っていること自体が馬鹿らしくなった。
「どうせなら、A県まで足を延ばして、櫃まぶしにしない?」
「お、櫃まぶしか、いいね」
結局宏美は、往復八時間の強行軍を受け入れることにしたようだ。
かなりの弾丸ツアーだが、見方を変えれば恋人との小旅行と言えなくもない。
経費は会社持ちだということだし、この際だから楽しんだほうが得だろう。
そう気持ちを切り替えて、宏美は助手席のシートに座り直したのだった。
ーーー
「わあ、こっちの方は、もう満開なんだね」
「そうだな。なんだか、季節を先取りした気分だな」
二人が目的地に着いたのは、午後の一時過ぎであった。
昼食休憩などで寄り道をしてしまった為、結局往路で五時間強を要したことになる。
帰り道のことを考えると気が重いが、それは頭の隅へと追いやり、宏美はこれからのことを考えた。
視界を埋め尽くすように咲き乱れる淡い白桃色が、唯一の心の慰めのようなものだ。
「その研究所って、まだ遠いの?」
「えっと、ナビによればもうすぐなんだけど」
カーナビの指示に従い高速道路を降りた車は今、県道から山道へと入ったところだ。
山道といってもアスファルトで舗装された道だが、基本的に山を登るためカーブが多いようだ。
急なカーブを曲がる度、宏美の体は右へ左へ振り回され、三半規管が過度に揺さぶられ続けた。
「ちょっと亮平、止めてくれない?あたし酔いそうだよ」
「大丈夫だって、ほら、もうあそこだからさ」
右手でハンドルを握る亮平が左手で指差したのは、もう少し山道を登った先に見える建物の影だった。
遠目であることと桜の木々に遮られていることからよくは見えなかったが、車ならばそう遠くないことは見て取れた。
「先方には一時半でアポ取ってるから、悪いけど頑張ってくれよ」
「わかった。吐く時は、亮平の方でいいのね?」
「やめてくれ。俺はそんなに、マニアックじゃない」
そうこうする間に、車内には何事もないままサイドブレーキの音が響く。
二人が車を停めたそこは、桜のただ中であった。
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