1

2/7
前へ
/7ページ
次へ
とりあえず、人間をやめてしまうことにした。 親や先生には何も言わなかった。説得する自信が無かったからだ。実際のところ、大人に納得してもらえるような理由を、僕は持っていなかった。ただ、ある朝起きたら唐突に、しかも鮮烈に、人間をやめたくなっていたのだ。昔、朝起きたら何の前触れもなく虫になっていた男の人がいたというが、僕の身にはそんな幸運は降ってこなかったので、書類を持って申請しに行く必要があった。既に必要事項は記入してある。 それらは、学校指定の鞄の中に、僕の財布や預金通帳、それからさしあたっての旅行道具と一緒に入っていた。人間をやめたら、暫くの間は住むところも帰る場所もなくなってしまう。自分の居場所を確保するまでは、貯めてきたお金でどうにかしなければならないのだ。資金は少しでも多いほうが良い。だから僕は、今日はチョコレートを買わずに電車に乗った。それも、いつもとは反対の方へ行くやつに。一人で役所へ行くのは初めてだが、緊張はしていなかった。僕は人間をやめるべくしてやめるのだ。やるべきことをやるのだから、そわそわする理由はない。ただ静かに座って、あまり見慣れない風景を電車の椅子から眺めていた。僕が普段乗っている電車は、この時間は大抵混んでいる。だからこんな風に窓の外を眺める余裕なんて今まではなかったのだ。それともやっぱり、心のどこかでは緊張しているのだろうか。僕は今日、人間をやめる。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加