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いつの間にか老人はいなくなっていた。手続きを済ませたのだろう。今や役所の中は僕ひとりだった。受付の女性はどこかに電話をかけている。眉を顰めてこちらをちらちらと見ているのが気がかりだった。もしかすると、書類に不備でもあったのだろうか。いや、そんなはずはない。それならばどうして。――きっと、僕のことが嫌いなのだ。僕はそう結論づけて、ベンチの上で大きく伸びをした。こういう状況には慣れているので、対処のしようがある。つまり、全く関わらなければいいのだ。相手の悪意を受け流そうとか、どうにかして自分の立ち位置を改善しようとか思ってはいけない。それは、僕が短い人生の中で身につけた、唯一と言っていい処世術だった。お陰で僕は、誰かから靴を隠されたり、暴力を受けたりせずにこれまでやってこられたのだ。 「すみません、いいですか」 女性が声を上げた。電話を片手で抑えている。僕は大人しく受付のカウンターの側へ寄った。 「書類に何かありましたか」 「いえ、そういうわけではないのですが……」 女性は困ったような顔をして、それから僕に、簡単ないくつかの質問をした。名前、性別、年齢。家はどこで親は誰か。それからこの国の首都とか、1たす1はいくつかとか、そんなことを。それで僕は合点がいった。この人は僕が、気が変になってしまったのではないかと疑っているのだ。きっと、学生の相手をするのは初めてなのだろう。 「あの、僕は正常です」 僕は、少しだけ不安そうな声で言った。この手の扱いにも、やはり僕は慣れている。こういう時はいかにも明るく振る舞うと逆効果だ。そんな目で見られるなんて心外です、という顔をしておいた方がいい。親や教師に、僕は何度もこんな顔で言ってきた。僕は正常です。僕は大丈夫です。僕に問題はありません。そうして、彼らは結局、それで許してくれるのだ。
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