第1章

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 咲空はその言葉に、ゆっくりと口を開くと、唄う様に言った。 “夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも 世に逢坂の 関は許さじ” 「この詩はね、私の得意札の一つであり最も印象に残った詩なの。百人一首の多くが恋詩である様に、この歌も恋人に宛てて贈った詩よ。夜が明け切らない内に他の女性のところに行ってしまった相手が、鳥の鳴き声に急かされたから帰ったのだと誤魔化そうとしたけれども、その様な言い訳で騙そうとしても私は騙されないし貴方には会いませんよ、という辛辣な返歌なの」 「何時の時代も女性は強いという訳か」 「…茶化さないでよ。とにかくこの詩を聞いた時、私の中で幾度となく反芻されてふとした疑問が生まれたの。それは恋愛に関してのみ言える事ではないのだけれど、例え行き着く先が望まないものだったとしたら、真理は何処までも追究すべきものなのか。或いは追求することを止め、仮初めだと理解していながらも甘んじて享受し続けるべきなのか、どちらが幸福だと言えるのかということよ」  そう言って深々と溜息を吐いた咲空を見て、律は真面目に回答すべきところと思い直し、口を開いた。 「そうだな、どちらかを選ばなければならないのだとしたら、僕は前者だ。仮に不幸であると理解していても、その現状に満足することは出来ないだろうし、知りたいと思う欲求は止められない。それに、追求する事自体が或る意味、人生の喜びとも言えるんじゃないか。君もそう思っているんだろ」と言って、律は窮屈そうに片足を立てた。 「昔は私も同じ様に思っていたけれど、今は後者よ。現実とは酷薄なものだから、叶う事ならばその時が来るまで、箱庭の中で夢を見続けたい。騙されても構わない、私は鳥の空音を聞き続けるの」  咲空は仰向けになると、白く華奢な腕を高く上げて、その手の甲を白い蛍光灯の光に翳し、眩しそうに目を細めた。  「君は矛盾の塊だな」と言って律は苦笑した。 「あたしだって、真実をとことん追求するわよ」と言って、ノアは出し抜けにむくりと起き上った。 「話は所々聞いていたけど、つくづくさくらちゃんは自己愛が足りていないわね。その様な具合だから、中華街の手相占いで将来愛人になる危険性有り、等と言われるのよ」と口を尖らせた。 「その時、僕も居合わせたかったな」  そう言って息も絶え絶えに腹をよじる律を後目に、咲空は寝返りを打ってそれ限、壁側に顔を背けてしまった。
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