第1章

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「片貝さんごめん、吉田がドジってさ。怪我はないかな」と律は少し掠れた声で尋ねた。  咲空はその瞬間、僅かに首を反らして冷やかな一瞥(いちべつ)()れた。そして一言だけ「私、あなたの様なヒトが一番嫌いなのよ」と臆面もなく言い放ち、再び本の中に視線を落としたのだったーー。  この時、咲空にとって律という人間は、自身とは対照的な存在であり、無条件で距離を置かなければならない対象であった。その拒絶そのものには何の根拠もなく、おそらく漠然とした、未来に対する本能的な自己防衛だった。  勿論、自分は吉田の行為とは何ら関係ない、とでも言いたげに声を掛けてきた律に対する怒りもあった。  大抵の女の子ならば、その対応に吉田と比べて神田はなんて出来た人間なのだろう、と思うに違いない。そう思うとより一層腹が立った。  その様な咲空の態度は、誰の目から見てもこの一件によって、二人の交流は永久に断たれたかの様に思われた。  ところが却って律は咲空に興味を抱くようになり、彼女が一人でいる時には、何故か隣の席に腰掛けるようになった。 「片貝さん、何の本を読んでいるの?」と無視されても毎回同じ質問を繰り返す律に対して、幾日目かの後に咲空は痺れを切らし、とうとう“ドストエフスキー”とだけ、つっけんどんに答えた。  律はその答えに目をぱちくりさせると、真横からじっと咲空の顔を覗き込んだ。 「日本文学ではなくて海外文学を読むのか。そういえば片貝さんって西洋人形に似て鼻が高く、綺麗な顔立ちをしているよね」と律は言うと、柔らかい薄茶色の髪を揺らし、目尻に皺を寄せた柔和(にゅうわ)な笑みを浮かべた(彼は笑う時、何時も目尻に皺が寄るのだ)。  なんて男だーー今まで日本人形の様に不気味だなどとしか言われたことのない自分に対して、その様な言葉を投げかけてくるとは。反論してやろうと思わず顔を向けたところ、何気無く咲空の顔を見据えていた彼と視線が交差する。  その瞳はオニキスの様な漆黒の美しさと煌きを宿していて、その光が全身を貫いたかのような戦慄が全身を駆け抜けた。咄嗟に咲空は身を退(しりぞ)けた。  それは決して甘美なる感情からではない。純粋な“恐怖”によるものだった。 『彼に近付いてはならない』再びはっきりと、そう予感した。  しかしその週末、何時もの様にノアの部屋で(くつろ)いでいる時のことだった。律に対する咲空の態度に、ノアは強い難色を示したのだ。
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