第7章 夕涼みの誘い

30/50
前へ
/272ページ
次へ
背中に視線を感じる。 見られている。先ほどからずっと。 (な、な、何かした、私!?) 茎を切る手が、動揺でぶれる。 午前中から、無難に接客をこなしていたと思う。 覚悟を決めて、振り返った。 まっすぐな瞳と視線が絡まる。 肘をカウンターにつけ、こちらを見ている。 「なぁ、女って好きになったら、他のことはどうでもよくなるのか?」 「え……?」 予想外の質問に、手にしたハサミを落としそうになる。 「例えば職場を簡単に辞めたり、破滅するとわかっている相手に夢中になるとか……お前だって、旦那のために自分自身を変えてるんだろ?」 黙りこんだ由美子に、少し慌てたように付け加える。 「いや、俺がお前を変えてやるって言ったからか?……悪い、この話は忘れろ!」 焦りながら、カウンター上の商品を意味もなく右から左に並びかえる純也。 「……本当に好きになるってことは、とても嬉しくて、反面、とても苦しいことだと思う」 他の人のことはよくわからないけど、と前置きした上で、ゆっくりと話し始める。 「好きになるのは、自分の意志じゃ止められないの。頭では悲惨な結末がわかっていてもね、少しの希望にすがってしまう」 相手が自分を好きになってくれる、周囲の反対が祝福に変わってくれる、何とか上手くいくのではないかと願いながら。 「でも、これは女性だけじゃなくて男性も同じ」 「俺らも?男は理性、女は感情で動くって聞いたことあるけど?」 腕を組みながら、由美子に尋ねる純也。 その表情は、納得しかねる様子だ。 「理論上はね。だけど、実際、恋に落ちたら男女の差なんてないわよ?仕事や家庭、将来すら捨ててでも、その人と共にいたいと思ってしまうの」 由美子は、古い歌謡曲の一節をハミングする。 「”ハート泥棒”って笑っちゃうけど本当。自分の心の一部が知らぬ間に盗まれて、相手の手の中にある。それが熱を失うまで、自分ではどうしようもないから、相手に好かれたくて懸命になるのね」 少しだけ、純也に笑いかけて、話を続ける。 「だから、私は勇樹のためというよりは、自分のために自分自身を変えたいのよ。でも、臆病で……私が少しでも変わったと思ってくれるなら、それは純也君のおかげよ?」 「……そういうものなのか?」 いぶかしげに首を傾げる純也に対し、今度は盛大に吹き出す。
/272ページ

最初のコメントを投稿しよう!

368人が本棚に入れています
本棚に追加