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「あなた、今日もなの?」
「ああ、取引先の人にまた誘われちゃって…遅くなると思うから、由美子は先に寝ててよ」
玄関の鏡で身だしなみを確認する、勇樹にビジネスバックを手渡しながら、由美子は眉をひそめた。
ここ最近、夫の帰りが遅い。
営業という職種もあるが、快活な性格の勇樹は取引先や上司に誘われることも多い。
酒にあまり強くない勇樹を知っている由美子にとっては、ほどほどに付き合って、早く帰ってきて欲しいという思いが、表情にでてしまう。
酔いつぶれて、同僚に背負われて帰ってきたことも一度や二度ではない。
「仕事だからしかたないだろ」
「そうだけど…疲れてるんじゃない?仕事も新人が入ってきて大変だって前言ってたし」
「ん、あ、ああ。それよりも」
ぐいっと肩を片手で抱き寄せられ、由美子はバランスを崩す。
よろける体は、なんなく勇樹に受けとめられる。
胸元からふわりと香るバニラとアンバーの甘くスパイシーな香りが鼻先をくすぐる。
いつもと違う香りに、見知らぬ男に抱かれている気がして一瞬、体がこわばる。
硬直した由美子の唇をかすめるように奪うと「行ってきますのチュー」と、楽しそうに勇樹は笑う。
「もう!遅刻するわよ。香水変えたのね、良い香り」
抱きしめられている腕の中で、文句を言いながらも身を寄せる。
「前の、失くしたんだ。じゃ行くよ」
「いってらっしゃい、気を付けてね」
閉まった扉を背にして、由美子はセーターの袖をまくりあげる。
朝食の片づけに、洗濯、掃除。専業主婦もなかなか忙しい。
酔って帰ってくるだろう勇樹のためにしじみの味噌汁を用意しておこうか。
窓からは春の柔らかい光が差し込む。来週には桜が満開だろう。
お弁当をもって、花見に行くのもいいかもしれない。勇樹の好物をいっぱい詰めて。
「そうだ、当日まで内緒にして驚かせよう!」
わくわくしながら、由美子は日常の家事に取り掛かった。
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