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春の夜のひと時が千金に値すると詠んだ昔の詩人。
夏や秋のようにかしましい虫の声もなく、冬のように肌を突き刺すような冷たさもなく。
ただ、柔らかに、浮き立つような大気が全身を包む。
それはなんだか夢の中のように儚く、人を切ない気持ちにさせる。
玄関から聞こえたかすかな物音に、由美子は、読んでいた本を机に伏せた。
既に時計の針は、次の日を示している。
「な、なんだよ。何で起きてんの?」
出迎えた由美子に、勇樹は大きく目を見開く。
「なんでって…」
夫婦だから。心配だから。愛しているから。
さまざまに溢れる思いを口ごもる。
感情表現が豊かな勇樹と違い、由美子は自分の思いを口にするのが苦手だ。
答えのかわりに、上着を受け取ろうとするとすいっと遠ざけられる。
「いいって。自分でやるから。寝てろって言ったのに…」
不機嫌そうな勇樹は乱暴にネクタイを緩める。
「しじみのお味噌汁あるけど…」
「いいからっ!」
荒げた声に、身をすくめる由美子を見て、勇樹は気まずそうに前髪をかき上げる。
「…悪い、ちょっと八つ当たりした。朝飲むから、ありがとうな」
疲れてるからもう寝る、と勇樹は自分の寝室に姿を消した。
夜遅くなる勇樹が、わざわざ起こしてしまうのが悪いからという理由で寝室は夫婦別室だ。
友人達の、いびきや歯ぎしりに悩まされ眠れないという苦労話をよく聞くが、こんな時はなんだかさみしい。
いつもより冷たく感じるベットに由美子は静かに身を滑らせた。
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