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石津は、穏やかに繰り返し、そういいながら、僕の右手を捻り上げて、フルーツナイフ
を奪った。何とか抵抗しようとしたが、その度に更に腕を捻られて、ついに僕は諦めた。
諦めると、徐々に、落ち着きを取り戻してきた。奪い取られて、石津の手の中にあるフル
ーツナイフを見つめて、自分が情けなくなり、涙が出てきた。僕は、何ということをしよ
うとしたのか。もう、正常な人間とはいえないじゃないか。僕が泣きだすと、石津は手を
離してくれた。真理子は、それでも暫らくは、石津の背中の後から離れなかった。
この二ヵ月の間、心配して、何度も石津は電話をくれていた。僕は、その度に「大丈夫
だ。段々、よくなってきている」と応えていた。なのに、石津がやってきた。真理子が、
たまりかねて、相談していたのだ。真理子は、自身の辛さとともに、また、身の危険を感
じてのこともあるのだろう、僕のあまりの憔悴ぶりを、石津に訴えたらしかった。
「少し環境を変えてみたらどうだ」
と、石津はいった。
「何度も、いったが、お前の作品は、待たれてるんだから、無理しなくていいんだから。
書くことは忘れて、静かな空気のいいところへでも行って、のんびりしてこいよ」
僕は、表面上かなり反抗した。そんなことまでしなくても、自分の力で立ち直ってみせ
ると、虚勢を張った。だが、心の中では、石津のいうことを、聞こうと決めていた。フル
ーツナイフを、振り上げるなんて、尋常ではない。このままの生活を続けていて、立ち直
れるなんて思えなかった。
石津は、僕のそんな反応を、予想していたようで、とある、あまり人に知られていない
別荘地に、家をすでに借りてくれていて、その家の鍵を見せて「もう借りちまったんだ」
といって、僕が承諾しやすくしてくれた。そのうえ、石津は出発の準備を手伝い、明日は
見送るといって、本当は、僕の落ち着き具合を確認するためだったのだろう、その日はわ
が家に泊まった。
真理子と石津は、この『僕の静養』、いや『僕の治療』について、夜、遅くまで打ち合せ
をしていた。
もともと、貸し別荘なので、家具や生活用品は、備えつけられているらしいので、身の
回りのものだけを車のトランクに積み込んで、翌朝、僕は真理子と二人で、その別荘地に
むかった。
前夜の打ち合せでは足りないと思ったのか、出発の直前まで、真理子は、しきりに石津
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