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とを恐れて、矢継ぎ早に新作を発表しなくてもよくなったのだ。
これで、寝食もままならぬような生活からも、少しは解放され、落ち着いて作品に取り
組めるだろうと、一息ついていた矢先のことだった。それまで書き続けていた、ある長編
を書き終えた後、それは僕に忍び寄っていた。自分のスランプに、僕はすぐには気づかな
かったのだ。
思い返せば、その長編も佳境に入って、筆が進まず、最終章は執筆に通常の倍の時間を
要した。その間に、強引に依頼されて受けたエッセイの類の仕事が何本かあり、次の長編
の打ち合せを編集者とするまでに、五日ほどかかった。普通なら三日で終える仕事量だっ
た。そんな筆の重さも、少し疲れているせいだと思っていた。そう思い込もうとしていた
のかもしれない。自分が、スランプに陥っていると、認めたくなかっただけなのかもしれ
ない。
逃れようもなく、それを自覚したのは、編集者との打ち合せの時だった。
その編集者は、デヴュー時からの担当で、僕の創作作法について、誰よりもよく理解し
てくれている。僕という人間についても。今でも、僕が一番乗って取り組めるのは、彼と
の仕事だ。実際、僕の作品中で、最良のものは、全て彼との仕事だ。僕という作家を、真
のプロとして育ててくれたのは彼だったし、彼も僕の成功のおかげで出世した。
その日、K出版の石津伸介と僕は、あるシティホテルの一室で落ち合った。先に着いて
いた石津は、ビールの注がれたグラス片手にドアを開けてくれて、僕の顔をみるなり「顔
色がよくないな」といった。部屋の隅に置かれたテーブルに、むかい合って腰を降ろしな
がら、僕は煙草に火を点けた。
「そうか。疲れてるのかな、やっぱり。エッセイ書くのに妙に手間取ったんでヘンだなと
思ってたんだ。仕事のしすぎかな?」
「そうかもな」
「からだ壊してまで、仕事することないよな。断ろうかな、お宅の長編」
「おいおい、それはないだろう。俺だって、半年待ってたんだぜ」
「わかってるよ。冗談だよ。でもお前も、もう原稿待つような役職じゃないだろ。若いの
に、働かせてたらいいんじゃないのか」
「若いのを寄越しても、原稿くれるのかよ」
「やるっていったら、若いのを寄越すのか」
「かもな。俺も、もう若いとはいえないし、お前とつき合うのは、並大抵じゃないからな。
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