第1章

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待たせられるんだから、もう、そういう立場なんだから、今のお前は」  仕事関係のつき合いの中で、唯一、甘えられる存在の石津を前にして、僕は萎え切って しまった。石津は、弱々しくコーヒーを啜っている僕に、何度も労わりの言葉をかけて肩 を強く握ってくれた。しかし、石津が励ましてくれればくれるほど、僕の気持ちは益々萎 えていった。  作家という特殊に個人的な仕事を始めて、売れっ子作家として仕事を捌く生活の中で、 僕が本当に心をゆるせたのは、妻の真理子と、石津の二人だけだったのかもしれない。売 れっ子と評される前から、つき合いのある編集者は石津だけだった。石津以外の編集者た ちは、売れっ子作家の僕に、近づいてきたのだ。僕の原稿が欲しいばかりに。僕のことを 少しでも思いやってくれたりはしない。自身と自身の会社の利益のことしか考えていない。 そのためだけに、僕に愛想笑いをし、何度も頭を下げているにすぎない。僕から何かをむ しり取ろうとする連中ばかりが、僕の周りに群がっていた。テレヴィ局や、新聞社や、週 刊誌の人間もそうだし、フアンだといって追っかけてくる若い女たちも、そうだった。誰 もが、僕からむしり取ることしか考えず、僕に何かを与えようとする人間は、一人もいな かった。真理子と、石津以外には。僕のことを本気で考えてくれるのは、その二人だけだ った。ずっと、そう感じていたのだが、胸の中で「そんなことはない」と否定し続けるこ とで、自身を鼓舞してきたのが、石津を前にして一気に崩れた。  石津が、優しくしてくれればくれるほど、一度堰を切った水はとどまることを知らず、 僕は何かに怯える子供のように、背を丸めて、小さくなり、身体を震わせた。  いつもなら、石津との打ち合せは、泊りが決まりで、二、三日帰らないことも珍しくな いのに、出かけて二時間ほどで帰宅したことと、僕の顔色が悪かったことが、妻の真理子 に「何かあったの?」といわせたようだ。  僕は、妻のその質問には応えずに、彼女の胸に顔を埋めて泣いてしまった。妻は、困っ たような声で「どうしたの。石津さんと喧嘩でもしたの」といいながら、僕の背中を擦っ てくれる。  しゃくりあげながら、僕は激しく、何度も頭を振った。 「じゃあ何があったの?」 「何もない」  そういった僕の声は、彼女の胸に遮られてこもっていたのだが、妻には通じたようだっ た。
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