そして俺が走る。

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 彼女は黒いドレスを身にまとい、ヴァイオリンを演奏していた。  彼女が演奏するのは、聞いたことのない曲だった。しかし、どこか懐かしい。  彼女の出す音色は、素人の耳には評価しがたい。しかし、聴き手を想った優しい音色だった。  彼女は眠るように目を閉じていた。しかし、真剣な彼女が伝わってきた。  風が吹いた気がした。彼女の方から俺の横をすり抜けて、吹いているような気がした。心地の良い風だ。  俺はこの風を知っていた。彼女を始めて俺の後ろに乗せて、全速力で走り抜けたときに、感じた風と同じだ。  正体はいまだつかめない。けれど、俺は言葉にできない感覚で、それを理解した気がした。  彼女の奏でる音楽は俺に話しかけるようにも聴こえた。いや、こんなの勝手な俺の妄想に過ぎない。けれど、いつも彼女としていた何気ない会話の時の、感覚と似ていた。  楽しそうなのだ。本当に楽しいかどうかは、それは勿論わからない。けれど、俺の知っている数少ない彼女の情報からだと、これは楽しい時の声だ、と判断できた。  応えなくちゃ。  俺は実際に話しかけられたわけでもないのに、彼女に言葉を返したくなった。  いや、きっとただ純粋に、俺は彼女と話したいだけなんだ。  『好きなのに何もしないっていうのは、間違ってる』  以前、クラスの女の子に言われたことを思い出す。俺はその言葉に応えるために自転車で男に勝とうとした。それが彼女を手にいれる手段だと思っていた。  けど、それも間違いだった。  彼女を見ろ、彼女は不純な気持ちで俺の後ろに乗っていたわけではない。本当の本当に、彼女はコンクールを成功させたかったんだ。  俺は彼女を惑わしただけだ。彼女を奪う闘いに巻き込んで。俺は彼女のためなんて思えていなかった。俺は間違えていたんだ。  彼女の手が止まった。肩に乗せていたヴァイオリンをおろし、深く深くお辞儀をした。すると瞬く間にホールは拍手に包まれた。椅子から立ち上るものまでいた。  素晴らしい演奏だった。素人目に見ても、いや、素人耳に聴いても素晴らしかった。  男が俺をここに連れてきたことはこの際どうでもよくなった。ただ、俺は彼女に言わなければいけないことがある。だから、運命は俺をここに誘ったんだ。  彼女が舞台そでに消えるとステージの明りは光を失ったように消えた。
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