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◇
ホールの下の階にはエントランスがある。俺と男はそこのベンチのひとつに座っていた。まばらだが少しずつ正装の男女がこのエントランスにやってくる。そして、そこで待つ家族のもとへ小走り。欧米のように抱き着く親子を見て、そういえば自分が最後に親と抱き着いたのは何時だったか、とぼーっと耽っていた。
親子は出会うと出口から外に抜けていく。ここはいわば親子の待ち合わせ場所と化していた。俺達も同じだった。
「……浅川って言ったな?」
「え、はい」
今まで黙っていた男の不意打ちに俺は面接時のように淡白な返事を返した。
「もう、なぜここに連れてきたのか、だとか、昨日アイツが何を言おうとしたのか、とかは聞かねえのか?」
「いや、それは……」
「あー、いややっぱいいや。そんなこと、もうどうでもよくなってんだろ?」
「そんなことは……」
「そんなこと訊いてくる君を俺は嫌いだった」
男は俺を見ていた。言葉は尖っていたが、しかし優しい目だった。
「けど、アイツのためだからな。アイツの悲しむ顔を見たくはない。それで俺はいやいや君を、浅川という男をここに連れてきた」
アイツ、というのはきっと彼女のことだろう。彼と彼女はそういう関係なんだ、俺よりずっと上の関係。俺は友達にすら満たっていない。
「いやいやだったが、だが今良かったって思った」
「どうして?」
「気付いてるか、浅川。君はここに来る前と今とじゃ、まるっきり面が違うぜ?」
「それは……」
それは、そうだと思う。ここに来る前と今、その間にあるのは彼女演奏だからだ。変わらないわけが無かった。
「だから、訊かなくても俺が教えてやるよ。昨日、アイツが言おうとしたこと」
「はい、聞かせてください」
これは興味とは別だ。俺は向き合わなければいけなかった。
「アイツは、今日浅川に来てほしかったんだ、このコンクールに。浅川に聴かせたかったんだ。足を怪我した自分を毎日送ってくれた、君に」
そして間を取って彼は言った。
「伝えたかったのは、感謝だ」
俺はいろいろ間違っていたんだ。昨日、彼女に会わなかったことも間違えだった。だとしたら、俺は伝えなければいけない。彼女が俺に感謝を伝えようとしたように。
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