第四章 項羽と劉邦

10/53
前へ
/368ページ
次へ
劉邦の軍は搦め手の軍勢。 咸陽の東にある函谷関を攻めようとする楚軍本隊より先に、咸陽の西側にある武関を無血開城させて、関中に入った。 秦の三代皇帝、子嬰との協議の上で、咸陽から少し離れた覇水の上流、覇上に陣を張り、子嬰を待った。 秦の三代皇帝、子嬰は楚の劉邦の前に白装束で現れ、 「自らの命と引き換えに咸陽の人民の安全を保証して欲しい」 と嘆願した。 劉邦はその子嬰の覚悟を見て、すべてを許して咸陽にも一滴の血も流さずに入城した。 咸陽入城後、一切の略奪等を禁止した。 そして咸陽の人民を集めて、即座に三法を敷いた。 盗みを働いた者は労働を課す。 人を殺した者は死罪。 人を傷つけた者は、その傷が癒えるまで投獄する。 このわかりやすい法は、厳しい法に縛られていた秦の人民も受け入れやすかった。  そして、その上で劉邦は楚軍の本隊が到着するのを待った。 楚軍の本隊は、咸陽の東にある函谷関を目指していた。 しかしここで劉邦軍は大きな失敗をした。 項羽率いる楚軍本隊が函谷関に差し掛かった時、その門を堅く閉ざしていたのだった。 その事で項羽は怒り、函谷関を武力で破り、劉邦に二心有りとして咸陽に攻め込む準備を始めた。 劉邦軍の軍師張良の機転で、項羽の叔父に当たる項伯に接触し、怒り狂う項羽の誤解を解くために鴻門にて両軍の会見を行う事となる。 この会見が後に「鴻門の会」と言われる。
/368ページ

最初のコメントを投稿しよう!

33人が本棚に入れています
本棚に追加