第零章 プロローグ

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やけに静かな部屋に感じた。 壁にかかった時計の針の音だけが響いている。 黒い革のソファは高級品で、健一もインターネットで見た事があった。 一脚二十万は下らない代物。 健一の向かいに座る男は足を組み、そのソファに深々と座り、胸の前で両手を合わせていた。 「どうしますか。飲まないのですか」 その男はそう言うと組んでいた足を解き、身を健一の前に乗り出した。 健一の額には汗が滲んでいた。 目の前には水の入ったグラスと小さな紙の包みが置いてある。 男はそのグラスを取り、わざと音を立てるように健一の前に置き直した。 健一は目を閉じて深呼吸した。 「飲まれないのでしたら、次の患者さんに権利をお譲りしますがよろしいですか」 男は再びソファに深く座った。 「萬能丹は数が限られていますからね。飲みたい患者さんは沢山おられます。本当にお飲みになられないのでしたら、次の患者さんに権利をお譲りしますので…」 この男からその言葉を何度聞いたかわからない。 健一は長い時間、目を閉じたまま時計の音とその男の声だけを聞いていた。 「あなた、この萬能丹を飲まないと死んでしまうのですよ。考える余地は無いと思うのですがね…」 良くしゃべる男だ。 健一はそう思った。 この部屋に入ってどのくらい経っただろうか。 その間、健一はほとんど言葉を発していないのだが、この男は三十秒と黙っている事が出来ない。 男がしゃべればしゃべるほど胡散臭く感じるのだった。 「確かにこの薬は高額です。しかし、これを飲むとあなたの病気はたちまち治ります。言わば命の値段です。どうしますか…。大石さん」 そう。 時間がないのはこの男にではない。 健一に時間はないのだ。
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