彼は上下左右である

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「良かったな、熊の縫いぐるみ。あんたは終われるんだ」 横にある塵箱に突っ込もうとした。手から熊の縫いぐるみが離れていた。熊の縫いぐるみはベッドに落下して、盛り上がった掛け布団の上から転げ山下付近でこてんと座った。自分は静止し、先ず右手を眺め、何回か閉じて開いてみたがどう考えても正常だ。熊の縫いぐるみを見やれば、視界は濃い茶髪に遮られている、髪の隙間から優しい色合いの熊の縫いぐるみを確認出来た。 「……、珍しい事もあるんだな」 染々思う。手から滑って、転がって、座るなんて事もあるのか。再度手を伸ばす。指のない平らな、如何にも綿が詰まっている左腕が自分の手を弾いた。右手を弾かれた。何故だ。熊の縫いぐるみが動いたからだ。 「君ねえ、ボクに気安く触らないでくれたまえ、変形するだろう?」 喋った。 「……、変形」 喋っている。聴覚に異常はないんだが、熊の縫いぐるみからは声がしている。腹に典型文を再生する機械があるのだろうか、落ちた拍子に作動したとしても、再生されただろう台詞は嫌味がある。 需要が子供だろうに、触った反応がこれでは好ましくはない。 「そうだよ、変形だ。ボクの首根っこを乱暴に握るものだから分からないんだろうけどね、流石にね、それはボクは許すよ。でもさ、向かう先が塵箱はないだろう、塵箱は」 何故、返答がある。仮説が崩壊した。 「……塵箱」 なんだ、これは。もう一度だ。なんだ、これは。 「しかも君ねえ、ふざけるのも大概にしなよ。終わるなんて縫いぐるみであるボクに語るとは、浪漫溢れた人間とばかりボクは思ったけど、内容も行動も浪漫の欠片もないじゃないか」 手が動いた。前方に普通だとばかりに鎮座する熊の縫いぐるみは、手足を動かして立ち上がった。掛け布団の膨れた頂上に向けて歩む。姉ちゃんの腹からゆるりと膨らむ胸部に向けてまで、短い足が一歩一歩踏み締めていたが、姉ちゃんは軽い縫いぐるみに息苦しくはないらしく、相も変わらず穏やかだ。変な絵面である、一つ一つの動作が嫌にも理解出来た、動くな、止まれ。赤信号だ。 混乱が埋め尽くす前に、思考で駆逐する。 「ちょっと待て、熊の縫いぐるみがなんで動いている?」
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