彼は上下左右である

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狭くて車が車輪を溝に落とし、牽引車に引っ張られている光景を何度か目撃した道路に、熊の縫いぐるみはいたのだ。黒光りするお世辞にも滑らかではない路面に立ち、もこもこした綿が詰まっているんだろう左手を金網に当てている。小さくて見逃しそうになったが、やはり熊の縫いぐるみだ。 「……、奇妙で奇っ怪な光景だな」 必要以上に長い前髪を撫でる。そのまま左手を口元に携え、一応考えた。無理だな、良く分からない。熊の縫いぐるみと言えば、初めて気付いたように大きな頭部によって幼稚な動作で此方に向いた。黒い人工的な眼と目線が重なる。 「また君か。先程はボクに散々な事を仕出かしたね、君。謝る義務があるよ。そうだろう。此処では誰にも迷惑を掛けるなと育てられ、迷惑を掛けたなら謝るように教育される。なら此処で一つ提案だ。踏切を勇敢にも、男らしく威風堂々遮断桿を飛び越えすり抜け潜り抜け、渡らんとするならば先刻の無礼を寛大に許してやろうと思うのだけどね、ボクは」 偉そうな縫いぐるみだ。なんだかんだ言って、尊大だ。許すも許さないもないだろう。幻聴は自身の脳から絞り出された声、皮肉な台詞だ。今日は直ぐに寝よう。こんな下らない幻覚や幻聴が聞こえたり見えたりするんだから、休みは過ぎてもお釣りは出る。 それでも自分は独り言になるだろうが、他人様から見ればどれだけ痛々しいか想像するだけで枕に顔を埋めて悶え苦しむ過去を刻もうなんて気になっていた。馬鹿馬鹿しい事柄が、なんだか気を紛れさせれていた。疲れからの妄想に真剣に付き合う気は更々ないし、先ずそんなに余裕もないのだが、人も特にいないし叫ばなければ誰の迷惑にもならないだろう。
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