彼は上下左右である

15/49
前へ
/235ページ
次へ
唸り。耳鳴りか勘違いかだと思ったが、思い出せば最初から唸っていた。近頃見ていたものと同じだが、プラズマとは唸るものだったか。元来影のようでいたか。良く分からなくなった、そんなに知らないし、害がないならそれで良いだろう。 思っていて、強靭な二の足の下に気を配った際に前言撤回せざるを得なくなった。深く華やかさに欠けた黒が広がっていて、あの黒は重油に近く、或いは細やかながら赤を思わす鈍い光が跳ね返していた。昔から実物を知っていて、この身体にも流れる液体が血であるのも十分に理解可能だ。 誰の血であるかと考えるまでもない。鋭利な、漆黒の爪が皮を引き裂き骨を断ち、内臓を掻き混ぜ捏ね回された人間のものだ。 目がなく、陥没している。二つの目玉が収まるべき場所は赤錆を振り掛けたかの如く、滑りを携えていた。穴を目を細めて見詰めると、脳味噌が見えそうでいた。血が流れ出て、皮膚が剥がれて柔らかそうな肉と細長い線が何千も束になった筋肉が千切れ、解れていた。骨らしきものも筋肉の隙間から覗き、月明かりが無駄に生々しく照らし出しているのだ。上に股がる犬が半分以上隠していたのに、長い前髪が視野を狭めているのに、酷く鮮明に眼球に突き刺さった。光景が、眼前が。 思わず口を押さえ、身を引き、腰を空かした。人の死よりも、意識した瞬間から振り払えない苛烈な生臭さで嘔吐しそうになっていた。 獣の吠えが荒々しく、肌を痙攣させるような、敵意に溢れさせ貫いた。空気を直接殴ったかのような爆音に、身は硬直した。目を見開き状況を確認する。最善を選択しなければ、この自分はなにもなくなってしまいそうで、生との解離よりもふわふわ浮かぶ心が見当たらなくなるのが怖い。矢先、身体に激痛が走る、目先の犬が何処かに消えて、次に分かったのは道路を転がっていた事だった。呼吸をしていないのを、自分は気付く。ふと意識を渡せば腹に残る鈍痛が酷く込み上がって、心臓の裏側から殴打された気がした。 リュックサックが衝撃を和らげたのか背はそんなに痛くはない。身体がどうなっていたのか漸く頭が追い付いた、空を見上げていたのだ。黒い空は、なにか小さくもっと曖昧模糊な黒が被さる。両肩になにか、とてつもなく重いなにかが乗り押さえ、関節が悲鳴を上げた。
/235ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加