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「……すみません」
「ん? 何が?」
「勝手なこと言って」
「ああ、そんなこと。別にいいよ、人間はいつだって勝手な生き物だからね」
男は言うと、雨里に背を向けた。
「さあ、部屋に案内しよう。君も一応御客様だからね」
「……あの、名前、なんて言うんですか?」
「名前。ないよ」
「え……?」
男は玄関のすぐ左横にある階段を上る手前で、立ち止まって振り返った。
長く濃い睫毛を、そっと持ち上げる。
ビー玉のような真っ黒な瞳は、美しく澄んでいた。
目を開けた彼の顔は、雨里が出逢ってきた中で、一番綺麗だった。
その瞳に、この世のものが映ることはない。
「僕のことは“靄禅堂”って呼んで。君の名前は?」
「……志津雨里です」
「雨里ちゃんね。よろしく」
階段を上り始めた靄禅堂は、涼しげに言った。
「しかしこんな嵐の日に訪れるなんて、君も馬鹿な女だな。つくづく運が悪い。たまげるよ」
「……」
靄禅堂の背中が見えなくなったところで、雨里は拳を握り締めてぽつりと呟いた。
「……なんて性格の悪い奴……!」
雨の音は止んでいた。不細工なぶち猫が、大きな欠伸をして、奥へと姿を消した。
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