第1章

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 一つ下の学年に中川清子がいると知ったのは、医学部5回生になった年の春だった。    その日僕は、2限目に臨床検査医学、4限目に脳神経外科学の講義があり、3限目に当たる時間を図書館で潰すことにした。    大学の図書館は広く、たまにふと古い本のカビ臭いにおいが鼻をつく。僕は医学書コーナーに向かい、目についた『漢方の効用』という本を選んで近くのテーブルに座ろうとした。そのとき、ななめ向かいに綺麗な女の人が座っているのに気がついた。    「…中…川清子…」  その名前を思い出すと同時に、僕の口をついた。清子はペンを走らせていた手を止めて、ほとんど頭を動かさず、目だけをこちらへ向けた。小学生の頃と比べると、ふっくらしていた頬の肉は落ち、眉も美しく整えられていて、ずいぶんと垢抜けていた。相変わらず目は大きく、鼻筋の通った端正な顔立ちで、肌は白く、よく見るとうっすらとそばかすが浮いていた。  清子の方は僕のことを覚えていなかったらしく、怪訝な面持ちで僕が口を開くのを待っていた。  無理もない。清子は小学校4年の秋、僕の通っていた群馬の小学校に転入してきて、中学に上がる春、またどこかへ転校していった。ろくに口をきいたこともなかったが、10年以上経った今でもこうして覚えているのは、清子が容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群のクラスのアイドル的存在で、僕も密かに、給食に揚げパンが出ただけで大騒ぎするような他の女子とは違う、その大人びた物腰や、都会的な雰囲気にあこがれていたからだ。  「覚えてない?群馬の小学校で一緒だった陣内…」  「ああ、陣内くん」  眉間によっていたシワがふっと消え、険しい表情が微かに笑顔になった。本当に僕のことを覚えていてくれたのか、真偽のほどは定かではないが、清子の表情が柔らかくなったことに僕はひとまずホッとした。  「驚いたよ。まさか同じ大学だったなんて。あ、向かいの席空いてる?」  「どうぞ」  椅子を引く鈍い音が館内に響く。  「早いよな、あれからもう10年以上経つなんて」  「……そうね」  思い出したくないのか、僕は清子のあまりに素っ気ない返事に戸惑った。  「あ、そういや中川さんの専攻は何?」  「神経精神医学よ。私、精神科医になりたいの。今年からインターンとしての授業があるから、今もいろいろ精神病の実例について調べてたの」
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