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670馬力の女
「行かないんですか?」
「ああ、行くさ。だがまだ礼を聞いてねぇ」
得意げに腕を組むレオは、相変わらずの強面ながら少しだけ朗らかな表情のように見えた。
それが面白かったのか、ヒューガはまた「ふふっ」と嫌味に笑う。
「えっと、私、なにかして頂きましたっけ?」
「とぼけるな。あんとき俺が戻らなけりゃ、テメェはクソアウディに撃ち殺されてた」
「それだったらレオさんだってそうですよ。私が居なければポルシェをパスできなかったでしょう?」
「ああ? 俺は手を貸すなと忠告したはずだ。守らなかったお前が悪い」
「あっ、はい。大変申し訳ございません」
「チッ、テメェはそれだからクソ女なんだよ」
ヒューガからの応酬を諦めたのか、レオは黄昏るようにムルシエラゴとゾンダに目を向ける。
二台ともくたびれた様子だ。
特にムルシエラゴに関しては傷ついている。
ゾンダに比べて元が綺麗だっただけに、それは増して感じられる。
「レオさんは予想できてたんですか? 相手の車に規格外の改造が施されていることを」
「いいや。あれがこの世界の普通だとしたなら、レースどころか常務ですら置いてきぼりにされちまうだろうな」
「レオさんがネガティブなことを口に出すなんて珍しいですね」
「ふんっ、テメェに俺の何が分かるってんだよ。……とにかく明日の夕方、サボるんじゃねぇぞ」
「分かってますよ。では私はタイヤ交換に入ります」
「あっ、おい! 待てよ」
レオは背を向けるヒューズを飛び止めた。
「はい?」と振り返るヒューガ。
相変わらず穏やかで曇りのない目線だ。
それはレース後であろうと変わらない。
「……てっ……手伝うか?」
「ありがとうございます。でも、少しだけ一人になりたいんです」
「ああ……そうかい。じゃあな」
背を向けたのは同時だった。
ワイルドウイングのメンバーを待たせていた為、レオは少し急ぎ足だ。
ゾンダのエンジン音が響き、峠にはヒューガとムルシエラゴだけが残される。
傷ついた黄金色のホイール。
それを撫でるヒューガ。
ささくれで指先が切れる。
「はぁ…」と小さく溜息を付き、煙草に火を付ける。
煙草にしては珍しい黒い煙。
空に溶けてゆく。
夜明けだ。
ムルシエラゴに背を預けて腰を下ろす。
トワイライトの空を眺めるヒューガ。
車と女。
西向きに伸びる二つの長い影は、やがて一つになった―――。
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