第1章

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     ◆(某日――時刻不定)  都市部からは、少しだけ離れた郊外の民家の裏。  漆喰の壁や置き石、地面などに真っ赤な液体が飛び散っていた。近くからは、野太い男の人の怒声が絶え間なく響いてくる。  中年の男の人だった。顔には皺が入り始め、皮膚はたるんできている。明確な怒りを携えた表情をした彼は、息を乱しながら、左腕で額の汗を拭った。  彼の見据える先――より正確には、彼の足許。  そこに私はいた。  月明かりに私の姿が照らし出される。服は身につけていない。うつ伏せに倒れた私の背中や腕、脚には無数の生々しい傷があった。  また、その傷が増える。  男の人のつま先が、私の腹部を蹴り上げた。  身体がひっくり返され、髪が振り乱れる。  身体を、くの字に折り曲げ、むせかえる。開かれた口から血が噴き出した。それでも彼は、一切、構う事なく私へ度を逸した暴力を加え続けた。  ――無限とも思える時間が経った頃、不意に彼の動きが止まった。  彼の足許に転がる私は、もう糸の切れた人形も同然だった。手足は放り出され、指や肘、膝などの関節が不自然な向きに曲がっている。  全身には数えきれないほどの切り傷や擦り傷、そして青痣が広がっていた。  もう意識が朦朧としてきていた。左目はまぶたを開く事ができないほど、腫れ上がり、流し続けていた涙はすでに枯れ果てている。  口からは、もう、ほんの僅かな呻き声だって出てこない。  彼は鼻を鳴らし、私を勢いよく蹴り飛ばす。身体が硬い地面を転がり、薄く血が引き伸ばされる。  彼は近くにあった、漬け物石ほどの大きさの、置き石を手に取った。  そして、両手で持ったそれを真上に振りかざす。  血走った目で私を一瞥し、僅かにでもためらう事なく、それを振り下ろす。 「――この、化け物が」  肉と骨を砕く音が、暗闇に鳴り渡った。      1(二月七日――午前五時四三分?午前五時五五分)  それは、部屋いっぱいに響き渡る絶叫だった。  思わず、手にしていた包丁を落としてしまいそうになる。  五十嵐は朝食の準備を中断して、声のした方向に振り返った。  ただでさえ狭いボロアパートの部屋を、さらに陣取り、圧迫している(実家から持参した)ベッド。その上に、はあはあと粗い呼吸を繰り返す少女がいた。昨日の夜、悩んだ末に結局、連れて帰ってきたコートの少女である。
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