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なごり雪
春から別の大学で教えることになった。
南にある、温暖な地域。
しかも全国の中でも私の専攻を強みとしている大きな大学病院だ。
迷いがなかったかと言えば、嘘になる。
が、歳を取ればとる程、挑戦するチャンスも気力も、減ってきてしまっているのも事実だ。
三日ほど考えて、話を受けることにした。
10年近く使った研究室の荷物をまとめる。
かなり色々と溜め込んでいたが、良い機会だ。
処分できそうなものは処分して、トランク一つでというわけにはいかないけれど・・・。
「先生、今、よろしいですか?」
捨てる物を廊下に出していると、後ろから声を掛けられる。
振り返ると、一昨年まで教え子だった少女が立っていた。
「あら、戸田さん? お久しぶり。元気に・・・していましたか?」
「・・・はい。先生も、お元気そうで」
途中で言いよどんでしまったのは、彼女がオペで重大なミスをしそうになり、患者さんが亡くなるかもしれなかったという話を聞いていたからだ。
「私、看護師を辞めて地元に帰ろうと思って」
どこか疲れたような印象は、決断に至るまで自分を責めていたからだろうか。
「そう・・・」
「先生も異動されるって聞いて、ご挨拶に伺ったんです」
皮肉なものだ。
まだ若く先もある彼女が仕事を辞めて去り、私のような歳の者が異動になるなんて。
学生時代、明るくてお転婆だった彼女も落ち着いてきてはいたが、反面、それは危うさを孕んでいる感じもあり。
看護師になれました! と報告に来た満面の笑みと比べると、今の表情は痛々し過ぎる。
「ちゃんと・・・ちゃんと、看護師続けられなくてごめんなさい・・・」
絞り出すように言うと、彼女は静かに涙を流した。
患者さんは無事回復したと聞いたが、ずっと謝罪の言葉を口にしていたのだろう。
「辛かった、わね」
人の命の重みに対して、鈍くなってはいけない。
どんな時も冷静沈着に。
患者さんを不安にさせない。
いつも笑顔で対応する。
一体いくつの暗黙のルールが彼女を縛っていたのだろう。
現場を離れてから長く経ちすぎてしまい、その心の内を知ることは難しい。
背中をさすって、ただ、寄り添う事しかできない。
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