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「いや、昨晩、屋敷を見て来ました。しかし父母へのいとまごいは控えたのです」
「いとまごい? いとまごいとは、どういうことですの! あなたは何をなさるおつもりなのですか!」
一転して紫織の叱りつけるような口調に新三郎は慌てた。
「い……いや、それは……」
新三郎は返答に窮した。
「忘れて下さい。口がすべっただけで。紫織どのだから、つい気を許してしまった」
新三郎は下を向いている。
「ええ。そうね。私も新三郎さまだから心配しているのです。私と新三郎さまの間柄だからこそです。出過ぎたことではない筈です。何か心に決めて水戸を離れるおつもりのようですから、私も本当のことを言います」
「本当のこと?」
「あなたが編笠を外した時、私は嬉しくて胸がいっぱいになったのです。ああ、きっと私を迎えに来てくれたに違いない。新三郎さまは約束を守ってくれた。長く待った甲斐があった。これで、やっと私も世間並みの幸せを……」
新三郎は黙った。そうして紫織の言葉に頷きながら茶をすすった。
「それなのに、いとまごいなどと…………私の胸の内がわかりますか?」
新三郎は顔を上げて紫織を見た。
「私は、もう23なのですよ。若い門弟達からは、いかず後家などと陰口をたたかれて。あなたは、いつまで私を待たせるのですか!」
紫織は涙声で訴えた。そうして目頭を袖口で押さえている。
新三郎は紫織の言葉を量りかねた。
そんな…………そんな子供の頃の約束などを思い続ける訳がない。そんな事は有り得ない!
きっと、江戸行きを引き留める為の咄嗟の拵えごとに違いない。
だが…………紫織の涙はどうだ? 咄嗟のこしらえごとで涙が湧いて出るものだろうか?
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