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「一馬、大志郎は、どうしているだろうか……」
新三郎は弘道館での鍛練と共に、熱く議論を交わした友人の顔を思い浮かべた。
弘道館の広大な敷地の東側には学校御殿と至善堂、その北に文館。敷地の南側には武館と天文台、医学館があった。
敷地のほぼ中央には孔子廟、鹿島神社、八卦堂、要石、学生警鐘が設けられ社廟区(聖域)とされた。
また敷地の西側区画は馬場と調練場であった。
徳川斉昭(烈公)の名で公表された八卦堂『弘道館記』(1838 年)の碑には【藤田東湖】草案による建学の精神が漢文で書かれている。
弘道という言葉は、『論語』「人能く道を弘む。道人を弘むるに非ず」に拠る。
神儒一致、忠孝一致、文武一致、学問事業一 致、治教一致を教育方針とし、馬術や剣道という武道だけでなく、広く諸科学、諸学問の研究を進めた。
その目的は「国家無窮の恩へ報いる」ことであり、単に水戸藩の一藩校という枠を超え、諸藩から学生を集め全国最大の国立大学的な働きをした。
「偏党を排し、衆思を集め、群力を宣べる」の指針のもと、水戸藩士とその子弟のうち15歳から40歳までの者には弘道館での修学を義務づけられた。
学生は「朝文夕武の法」に従い、 午前は8時から文館で学問を修め、午後は4時まで武道の鍛練に励んだ。
水戸藩では士分の子弟が10歳に達すれば必ず私塾(弘道館教師の家塾)へ通わせ、句読及び書札を学ばせた。その5年後、15歳からは弘道館に学ぶのである。
学問は一生行うものであるという考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学ぶ生涯学習の場でもあった。
学問をする文館には、常時1000人の生徒がいた。
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