甲斐の虎と越後の龍

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景虎の黄昏から五日後、信玄は2,000の兵を引き連れて謙信と出会うべく信濃に入る。 そして行く先々の村や畑に商人の行き来なども見て回って様子を確認していた。そして隅々まで見渡し民の声も聞いて問題点を書き記して、頻りに本国へ報告書を送り続ける。 この事細かな行動は、信玄は勝頼が執った政策がどのように作用しているかの関心の元に動く。 勝頼は信濃の反乱を鎮圧する際、七公三民から五公五民まで税を抑える事と次男や三男にも土地を貸し与える事を公言して実行に移す。 これらは武田家にとって初めての試みであったのだが、現状の結果だけを見ると上々の成果を挙げていた。 まず税の引き下げにより国力の低下を懸念していたが、土地の貸し与えが払拭する。 理由として、当時の一般階層では土地の継承権は長男に渡り、ハッキリ言ってしまえば次男以下は代わりの保険やお荷物という扱いが多い。 故にそんな彼らが自らの土地を与えられるという事で開墾に精力を注ぎ、畑を増やすことにより総合的な納税の推移は高くなる事が見込めた。 そして必然的に民の一人頭の貯蓄にも余裕ができる事により、今までは手が出せなかった物なども買う流れができる。 買い手が増えれば行商も甲斐や信濃に立ち寄り易くやり、商人から関所の通行税やみかじめ料で武田家自体も直接的に利益を得ていた。 勝頼の初めての振るった改革は功を表し、皆が意識せずとも経済は着実に潤いだす。 そして信玄も直で視察し、綻びや改善点を洗い出しながら行軍していたのであった。
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