甲斐の虎と越後の龍

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「謙信よ。何故に無抵抗の登能と越中の民を従属でも拐い売る訳でもなく虐殺したのだ」 信玄は今一度、謙信に無意味な虐殺の意図を問う。 もしも民が武装して徹底抗戦の構えを見せるのであれば戦闘はやむなしの選択かもしれない。だが、今回の対象は降伏し戦う意思の持たぬ者である。 戦う意思の持たぬのならば、従属させ手中に治めるか拐い売るのが定石であるのだが、それを無視して虐殺というのはあまりに非生産的であるが故の問いだ。 だが謙信は問いに対して小さく肩を震わせて嘲笑う。 「解らぬか?解らぬであろうなぁ?他者を謀るばかりのご老体では一生解らぬか?」 そして謙信の瞳は黒く全てを吸い込み兼ねない闇が広がっており、これが信玄の姿を映す。 「人の尊厳を正す為だ」 「……尊厳を正すと?」 信玄は一瞬だけ顰めっ面を表すが、すぐに表情を整え直して聞き返した。 「この世で最も恥ずべき行いであり、受けた者にとって最も屈辱的な行為が何だか解るか?其は信頼に対する裏切りである」 「それが虐殺と、どう繋がる」 「越中の民はこの謙信が治めてやったにも関わらず、一揆にて応えてきた。そして能登の民は戦が終えていないにも関わらず、己が領主北畠を殺めて差し出した。どちらも許しがたき尊厳の裏切りだ」 「随分と尊大な言い方だな、まるで神であるかのようだ」 この皮肉に謙信は首を振り上げて高笑いする。そして体を乗り出して信玄に人差し指を伸ばし口角を吊り上げた。 「それは違うぞご老体。神のようではなく、我こそが毘沙門天であり神であるのだ」 そして一切の躊躇など見せず、さも当然であるかの如くに己こそが神なのだと豪語した。
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