一国二君

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信忠は困惑した。 要約すれば信玄の遺言は、織田家に兵を出させて上杉家を挟撃しろとの内容である。 だが織田家にとって上杉家は確かに敵であるのだが、武田家とて同じ事。 また此方とて朝倉家との戦いを終えたばかりであり、各地に残党狩りや加担した国々の仕置きなどと兵を割く余裕もなかった。 故に利点も無いのに其処までやる筋合いはないと考える。 「信玄様の話はまだある。その折には織田家の能登及び越中の占領を見過ごそう」 かと考えていたが、それを見透かされたような内容が続いてきた。 この二ヶ国は北陸道を繋ぐ要所であり多大な益となる無視できないものであり、攻める価値は見出だせて家臣の同意も得られやすくなる。 だが信忠の本心は、この考えはあくまでも周りと自分を納得させる建前でしかなかった。 「松姫……大丈夫ですか?」 「…………なっ、な、何も御心配ありませぬの。松は武田を捨てた身……何も……」 顔を上げた松姫は、信忠に涙を見せないよう瞳に滴を溢れんばかりに溜めて声を震わせながらも笑ってみせた。 この姿に信忠は胸が締め付けられ心臓を押し潰されたほどの感覚を錯覚し、思わず天を仰ぐ。 好いた者の涙を使うなど、やってくれたな武田信玄。 そして信忠は心の中で信玄の名を吐き出す。自身がどれだけ松姫を好いているなど三方ヶ原での折に知られており、そこを的確に突いてきた。 信玄の死は謙信を葬る為の布石と共に、松姫にこのような顔をさせる為の布石でもあるのだと。 事実、松姫の涙を見た信忠は芯から震え、彼女を助けたいと本能が叫んでしまっていた。 自分勝手だろう。独りよがりだろう。だがしかし自身の全てを投げ捨てて天下平定に捧げようとも、心より好いた者までも捨てる気は無い。 そして決意を固める。
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