廻りし歯車

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1571年9月、朝倉家が盟主とする多方面同時攻勢を防ぎきった織田家は、改めて地盤を固めるべく行動を開始した。 まずは混乱した領地内の治安維持を重点に置き復興を始め、同時に加賀、近江、摂津、岐阜等々の主要地に砦を築き備えを強化する。 次いで公家衆を京に迎え入れ織田政権の正統性を改めて認めさせた。 更にその折、織田信長はより明確な形を要求し、僅か4ヶ月で正四位下弾正忠から正二位右大臣まで短期間で官位を賜る。 この異例ともいえる官位の要求は、もはや信長の意思で朝廷おも操れるのだと示すに易いからであった。 そして今回の騒動を裏で操っていた足利義昭であるが、命は取らずに京を追放させる。 その裏には義昭を西へと追いやることにより、将来的にこれを理由に攻め入る為の大義名分として使うという密約が交わされた。 また地盤固めを一通り終えたと同時に、織田家へと攻めた大名家への仕置きが始まる。 降伏を認めた朝倉家は一向衆の都合も鑑みて大半をそのまま越前の統治に残し、浅井家は一色家の丹後攻めを命じられてそのまま転封する。 次いで筒井家は織田軍に攻撃はせず、あくまでも松永家との私闘というかなりの温厚な処遇を受け、主君である順慶の母を人質に出すだけで終える。 そして三好家は織田軍と雑賀衆が共同し近畿内の勢力は完全に駆逐され四国へと閉じ籠る事となった。 波多野家はいち早く織田家へ恭順の意を示したが、西への足掛かりとして自由に使える地が必要だった為、問答無用で叩き潰される。 東の武田家は信玄が亡くなれど、依然として大勢力を保持しており徳川家と小競り合いの日々であった。
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