廻りし歯車

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1572年8月、織田家による内政改革が一年経たんとする頃、とある事が引き起こり大きく揺れ動く。 伊勢の長島に拠点を置く願証寺一向衆たる願証寺証意が突如として織田家に牙を剥いたのであった。更にあろう事か織田領の古木江城に攻め入り、城主にして信長の弟である織田信興を自害にまで追い込んでしまったのである。 この願証寺は浄土真宗の寺院として創建され本願寺とも根強い関係であった。以後、本願寺門徒は地元の国人領主層を取り込み地域を完全に支配し、数十の寺院だけでなく五つの堅牢な砦を築きまでする。 そして過去にも桶狭間の戦いの時には今川義元に呼応して織田家を攻撃する画策や美濃の斎藤龍興を匿ったりと何かと因縁も深い。 「願証寺、滅するべし。奴らに関わる寺、砦、町の何もかもを滅ぼさん」 願証寺の一向一揆と信興の死を聞いた信長は眉間に深い皺を刻み付け、食事中であった目の前の膳を刀で一刀両断せしめて殺してやると憤慨を露にする。 特に今更になって寺が一揆を起すなど予測していなかった為、救援が遅れてしまいそれが一層として怒りの拍車を掛ける。 そして信長は自ら出陣、次いで織田信忠、織田信成を始めとする織田一門や佐久間信盛に丹羽長秀、美濃三人衆や河尻秀隆といった主要な重臣に朝倉家と浅井家にも従軍を命ずる。 更にダメ押しと言わんばかりに水軍に、九鬼嘉隆、織田信雄、滝川一益が安宅船や数百隻の大船団を率いて参陣。これは加賀や近江といった要所を除き織田家内ほぼ全軍に対し発せられた大号令であり、その数は50,000にも及んだ。 この大軍勢は東の武田家が一向一揆に乗じて攻勢を掛けるのを危惧し、早急に事を終える為と牽制を意味していたのだが、何より信長の眼には弟の仇討ちという怒りを燃やす。
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