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『なぁ、ちょっと休憩してく?』
なぁんて甘い言葉と一緒に吐息とリップ音が部屋の中に大音量で流れて、思わず顔がニヤけてしまう。
イヤだと口では言っても、どこかについて行っちゃうよな。この荒んだ状況の自分なら間違いなく喜んで休憩しちゃうよ!
――っていうかこんな風に誘われたことなかったなぁ。目が合った瞬間、僕を見る目に郁也さんの中にある欲情を感じて気がついたら唇を奪われて、押し倒されてるという――貪るように奪われていくうちに、僕の官能を呼び起こして、快感をこれでもかと強引に引きずり出されるんだ。
好きとか、愛してるなんて甘い言葉が一切なく、ただ性欲を満たすだけの行為――
「今はそれすらもなくなってしまったということは、飽きられちゃったのかな僕」
不規則な仕事時間をちゃっかり利用しながら、外で浮気していたりして……。
魅惑的な低音ボイスのセリフとリップ音の嵐を聴きながら、どうしてマイナスなことばかりを考えなきゃならないんだ。
『そんな可愛い顔してお強請りかい? イかせてあげるよ』
そうだよな。僕のこの思考が逝っちゃってるから、悶々と考えちゃうのかも。それよりも随分と湿度の高いディープなリップ音。どーやったらこんな音が上手に出せるんだろ?
郁也さんとちゅーしたのって、いつだっけ? ――ってまた、これじゃあさっきと同じじゃないか。
軽く自己嫌悪に陥ってるときに、玄関の扉が開く音が聞こえた。
「ただいま。ちゃんと書いてるのか?」
その声に振り返ると長い前髪をなびかせて家に入ってくる姿は、どこぞのモデルみたい。そして編集者らしい台詞に、チッと舌打ちをしてしまう可愛げのない自分。
ぜーんぜん仕事が手につかない状態です。なぜならばそれは、僕を構ってくれないからだよ。
そう言ったところで、ふふんと鼻で笑ってあしらわれるのが、容易に目に浮かぶのだけれど――
「随分早いお帰りだね。取立ては無事に終わったんだ?」
僕から見たら編集者って、借金の取立てと同じように見えてしまうんだ。期日をキッチリと守ればいいのが分かってるけど、毎回そんな上手いことはいかないものだし……。生みの苦しみを、少しくらいは理解してほしい。
「俺の担当する作家は基本、納期を守る人が多いからな」
おまえ以外は――と、目がありありと語っていた。
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