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「労働基準監督署が、なんの用なのだろう?」健一は浩二に問いかけた。労働基準監督署という役所があることは知っていた。社員の雇用に関する取締りをするところだということも知っている。健一は、労働基準監督署に対して、税務署と同様に敵性のイメージを抱いていた。
「なんかの問い合わせじゃないんですか?」浩二が、『とりあえず電話に出てみたら?』とでも言いたげな表情で言葉を返してくる。細面にシャープな銀縁眼鏡の浩二は、見た目はクールに見えるが、実際も冷静な男だった。
健一は、今の会社を立ち上げたときに、会社員であった浩二に自分の右腕になってくれるように頼み込んだ。健一は、どちらかというと激情家タイプだった。営業は得意だが事務系の仕事は苦手である。自分にない部分をカバーしてくれる人材として、弟の浩二は適任だった。
「浩二、代わりに出てよ」いつものように下の名前で呼んだ健一が、浩二に向かって電話に出るよう促した。
「社長あてにかかってきたのですから、とりあえず出てみたらいいんじゃないですか?」浩二が、冷静な口調で言葉を返す。
「あのぉ、電話保留したままなんですけど……」電話を取り次いだ加藤が困惑した表情を浮かべた。浩二の視線もデスクのパソコンに戻っている。
健一は、恐る恐る受話器を上げた。
「お待たせしました。社長の小島ですが」
「私、池袋労働基準監督署の安藤と申します」受話器の向こうから低く落ち着いた男の声が伝わってきた。
「実は、本日お電話いたしましたのは、私どものほうに御社の時間外労働賃金の支払いが適切に行われていないという告発がありましたので、実態確認が必要と判断し、ご連絡しました」
「時間外労働賃金が適切でない?」
「はい」
「どういう意味でしょうか?」
「残業代が適切に払われていないということです。つまり、サービス残業が行われているのではないかということです」
「サービス残業ですって? うちは、ちゃんと賃金は支払っていますが」健一は気色ばんだ。話が唐突過ぎると感じたからだ。
「もちろんそうされているとは思いますが、告発があった以上は無視するわけにもいきませんので、ご連絡差し上げました。こちらのほうから御社に伺いますので、実態確認をさせていただけませんか?」言い方は柔らかであったが、電話の声には妥協は感じられなかった。
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