第1章

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 しかし、電話の向こうの石川は、「そんな約束をしたかなぁ」などと恍けた返事を返してきた。それだけではなく、今から出てくれば遅刻扱いにはしないが、このまま休んだ場合は一日分の給料を控除するという言葉を口にした。  雇用契約は書面で交わしたわけではなく、あくまでも口約束だった。ここで反論を続けても水掛け論になるばかりだ。  あきらめた本村は、電話を切り、会社に向かうべくスーツに着替えた。食欲もなく、身体も重い。  心配する家族に向かって「大丈夫だよ」と空元気な言葉を口にした本村は、最寄りの駅に急いだ。重い体を引きずるように小走りに歩く。あまりにも出社する時間が遅くなると、遅刻分の賃金控除をするなどと言われかねないからだ。  通勤ラッシュのピークは過ぎていたもののそれなりに混雑した車両に乗り込んだ本村は、人混みに身を委ねながら、心の中で「労働基本法を復活させて欲しい!」と声を張り上げた。 第3節 会社都合の契約解除 1.  新山裕未は、人いきれでむんむんする地下鉄に揺られながら、つい今しがた食事を共にして別れたばかりの木山紀子、水元亜矢との会話を思い返していた。  木山と水元は、新山の大学時代の同級生で親友だった。大学を卒業してから十年が経ち、それぞれが違う道を歩んでいる。  木山は、三年前に結婚し、今は幸せな奥様に収まっていた。子どもはいないが旦那との相性が良く、いまだに新婚気分から抜け出せずにいた。  水元は、グラフィックデザイナーとしての道を歩んでいた。広告会社に就職した水元は、そこでデザイナーとしての経験を積み、二年前に独立した。斬新なデザイン力が評価されたことで出版会社や広告会社からの仕事の依頼が増え、毎日が充実しているということだった。  新山自身はというと、平凡なOL生活を送っていたが、典型的な男尊女卑の会社であり、毎日が雑用業務の繰り返しだった。  それでも、入社して三年ほどの間は職場の華としてチヤホヤされていたのだが、新山よりも若い女子社員が増えてくると、職場の男性たちの関心は若い方に移り、気がつくと新山は見向きもされない存在になっていた。  そんな新山は、二十八歳の誕生日を迎える直前に会社を退職した。このままでは、一生つまらない人生を歩んでいかなくてはならなくなるような気がしたからだ。
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