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「スニーカーと靴の話」
今朝はなんだか玄関がにぎやかです。体調を崩していらっしゃるお婆様の家に奥様とお嬢様がお見舞いに行かれるのです。それで玄関では白い革スニーカーと黒い革靴が朝から話をしていたのです。
「お嬢様は僕を履いていってくれるかなぁ」と白い革スニーカー。
「いえいえ今日こそはわたしの出番ですわ」と黒い革靴。
「なんでもお婆様の家というのは海岸沿いの小高い丘の上にあるらしいよ、僕は海なんてまだ見たこともないし、もしかすると砂浜を歩いてみたりするかもしれないね」
「砂浜を歩く感じってどんなかしら」
スニーカーと靴は夢見るように波の音を想像しました。
「昨夜、奥様に頼まれたシズさんがピカピカにわたしを磨いてくれたのよ」
「そうなんだ、僕は眠っていて気づかなかったよ。じゃあ、やっぱり今回は君なのか、残念だなぁ。でもその代わり土産話をたくさん聞かせてくれるかい」
「もちろんよ。あなたが今まで聞かせてくれた街の話も素敵だったわ。ポプラ並木の石畳をはしゃいで歩くお嬢様が目に浮かんだものよ。でもアイスクリームを踏んだあなたはベソをかいていたわね。わたしはそれがおかしくておかしくて。だけど笑ったらあなたに申し訳ないと思って必死にこらえていたのよ」
「ありがとう。僕は傷つかずにすんだというわけだね」
「どうやらお嬢様がおいでになったわ」
奥様は黒い革靴を手に取るとお嬢様の左足右足に丁寧に履かせました。ベルトの付いた革靴でしたのでパチンパチンとホックで止めました。家政婦のシズさんはお迎えのハイヤーを外で待っています。綺麗な洋服を着たお嬢様はお母様とのお出かけが嬉しくてしょうがないのでしょう、黒い革靴の履き心地にも満足されてピョンピョンと飛び跳ねています。白いスニーカーは「行ってらっしゃい」とちょっと悔しそうに声をかけました。黒い革靴は心の中で軽く会釈をして白いスニーカーがあまり悲しまないようにちょっとだけ手を振りました。奥様はシズさんに「明日には帰るわ」と言って、少しばかりの心遣けをお渡しになったようです。2人を乗せたハイヤーは駅に向かいました。そして特急列車に乗ること1時間、お嬢様は靴を脱いでずっと窓の外ばかりを眺めていました。朝が早かったということもあって黒い革靴は座席の下でスヤスヤと眠っていました。
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