ボーダーライン - 判らない

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「くっそ、片手はけっこう不便だな」  右腕を怪我したことで、今まで意識せずにやっていたちょっとした動作も、片手では難しいのだとあらためて気付かされた。ズボンのファスナーを上げるのも一苦労である。今も、誰もいない放課後の男子トイレで、ひとり悪戦苦闘しているところだ。  そのとき--。  きれいな手がいきなり自分の手を払いのけ、力任せにファスナーを引き上げる。 「橘っ?!」  山田は驚いて後方に飛び退き、その勢いでガラス窓に後頭部を打ちつけた。  ここは男子トイレである。当然ながら、そこにいたのは澪ではなく双子の兄である遥の方だ。わかっていても、あまりにも似ているのでドキリとしてしまう。その可愛らしい面差しも、すらりとした背格好も、きれいな白い手も、澪とそっくりでまるで女の子のようだった。 「それ以上、怪我しないでよ」 「あ、ああ……」  窓側に張り付いたまま放心状態で見とれていた山田に、遥は冷たい目を向ける。その表情は、決して澪が見せることのないものだ。山田はゾクリと身体の芯が震えるのを感じた。 「澪に変な期待するのはやめてくれる?」 「えっ?」  前置きもなく突きつけられた彼の言葉を、山田は理解できなかった。変な期待というのはいったいどういう--不思議そうに見つめ返していると、遥は眉根を寄せ、若干声を低めて直接的な表現で言い換える。 「澪は君のことが好きなわけじゃない」 「そんなこと……おまえにわからないだろ」 「わかるよ。澪は誰に対してもああだから」  彼の主張は理解したが、山田としては余計なお世話と言わざるを得ない。 「あんな顔で笑って、顔を赤らめて、顔を近づけてきて、あれで好きじゃなかったら何だってんだよ。キ……のことだって……別に怒ってはないみたいだし。突き飛ばしたのは単純に驚いたからで、嫌がってたわけじゃないだろ」 「へぇ……」  遥は平坦な声でそう言うと、大きく一歩踏み出して間合いを詰めた。そして、外見からは想像もつかない馬鹿力で左手首を掴み、踵を上げ、互いの息が触れ合うほどに顔を近づける。その肌は雪のように白く、きめ細やかで、柔らかそうで--至近距離で見るとますます女の子のようだ。澪と同様の大きな漆黒の瞳が、瞬ぎもせず自分を見つめている。山田の顔はみるみる熱を帯びていった。
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