ボーダーライン - 妹のため

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「おはよう」 「おはよう……って、え?」  山田は自席に座りながら無意識に挨拶を返し、直後に驚いて振り向く。声を掛けてきたのは遥だった。今まで彼に挨拶されたことは皆無である。しかもあんなことがあったばかりなのに--考え込んでいると、彼は当然のように山田の隣に腰を下ろした。しかしながらそこは澪の席のはずだ。 「先生に頼んで、澪と席を替えてもらった」  怪訝な顔をした山田に答えるように、遥はさらりと言う。  後ろを振り返ると、きのうまで遥が使っていた最後列の席には澪が座り、集まっている友人たちと楽しそうに話をしていた。席を替えたというのはどうやら本当のようだ。おそらく妹を守りたいという気持ちからだろう。それは理解できるが、行動は何かと度を過ぎていると言わざるを得ない。  きのうのことも--。  つい詳細に思い出してしまい顔がカッと熱くなった。無意識のまま自分の口もとに手を伸ばし、唇に触れた瞬間、鮮明にあのときの感触がよみがえる。これまでの経験がすべて上書きされてしまったかのように、強烈な記憶となって焼き付いていた。 「ねぇ、聞いてる?」 「ひっ……!」  ぼんやりしていると、遥が隣から少し怒ったような顔で覗き込んできた。そのあまりの近さに驚き、思わずのけぞり椅子ごと倒れそうになったが、遥がとっさに受け止めて元に戻してくれた。 「自分が怪我人だって自覚あるわけ?」  呆れたように言われたが、別に好きでのけぞったわけではない。いったい誰のせいなのかと言いたくなる。しかし彼に受け止めてもらわなければ、手をつくこともできずに転倒していたのは事実だ。下手をすれば、別のところも骨折していたかもしれない。 「悪かったな……ありがとう……」 「その腕が治るまで僕が面倒を見るから」 「はっ?」 「何でもしてあげるって、言ったよね?」  遥はそう言い、艶のある薄い唇をゆるやかな弧の形にして、意味ありげにうっすらと笑みを浮かべる。その言葉に、その表情に、その唇に、山田はゾクリと背筋が震えるのを感じた。
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