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「だから、駆け落ちじゃないってば!」
廊下を歩いていると、教室の方から大きな声が聞こえてふと足を止める。
橘の声だ。といっても山田が気にしている遥ではなく、その妹の方である。彼女は先日まで一ヶ月ほど誘拐監禁されていたらしいが、犯人がモデルばりのイケメンだったせいか、本当は駆け落ちではないかとまことしやかに囁かれているのだ。彼女本人は訊かれるたびに否定しているようだが、いったん立った噂はそう簡単に消えないだろう。
何にせよ、元気そうで良かった。
彼女ともクラスが分かれたきり一度も話をしていないが、それでも好きだった子が不幸になるのは見たくない。思ったよりも声に覇気があることに安堵しつつ、半分ほど開いた扉からちらりと中に目を向ける。人がまばらになった放課後の教室で、席に着いている澪のまわりにいつもの友人たちが集まっているのが見えた。もちろん遥もそこにいる。
「澪ちゃんは彼氏一筋だもんね」
野並が嬉しそうにニコニコしながら言う。
へぇ、彼氏がいるのか--山田はそう思うだけでショックは受けていなかった。彼女への想いはもうとっくに過去のものになっている。あれだけ可愛いのだから彼氏がいても不思議ではない。ただ、相手は誰なのだろうと少し気になって聞き耳を立てた。
「澪の場合はあれだよね、擦り込みみたいな? 何もかも初めてだからさ」
鳴海が含みのある物言いでからかう。
こんな言い方をされてはさぞかし面白くないだろう。澪だけでなく彼氏も馬鹿にされたようなものである。案の定、彼女はムッとして小さな口をとがらせていた。ふいに視線を斜めに落としてぼそりとつぶやく。
「……キスは初めてじゃなかったよ」
「はぁっ?!」
鳴海は大きく驚愕し、机に手をついてガバリと身を乗り出した。
「ちょっと何それ初耳! いつ? 誰と?!」
「したっていうかされたんだけど……」
澪は逃げるように身をのけぞらせながら、困惑ぎみに答える。
それを聞いて山田はギクリとした。彼女が言っているのは間違いなく自分とのことだ。中学一年生のときに隙を突いて口づけし、直後に全力で突き飛ばされて机ごと倒れ込み、右手を骨折したあのときの--まさか、今ここで暴露するつもりなのだろうか。じわりと冷や汗が滲んでくる。
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