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「そんなことするわけないだろう」
「そう、ありがとう……じゃあね」
「待て!」
あっさり身を翻して帰ろうとする遥の腕をとっさに掴み、引き留めた。遥はほんの少し驚いたような顔を見せたが、すぐに元の無表情に戻り、大きな漆黒の瞳でじっと山田を見つめて言う。
「何?」
冷ややかに尋ねられたが、特に何か用事があるというわけではない。ただ、あの日から密かに渇望してきた二人きりの時間を、こんなに呆気なく終わらせたくはなかった。
「……なっ、名前」
「えっ?」
「名前、呼んでくれよ。昔みたいに……」
さすがに真顔でこんなことを懇願されては困惑するだろう。そう思ったが撤回する気にはなれなかった。案の定、遥はわずかに眉をひそめて怪訝な面持ちになった。しかし--。
「……圭吾」
彼の唇が、静かに自分の名前を紡ぐ。
それだけで体中の血が沸き立った。全身に電流が駆け抜けた。遥以外の誰にも感じたことのない感覚である。今までずっと戸惑い、悩み、葛藤してきたが認めざるを得ない。同性にこんな感情を持つことは異常なのだろうが、自分は、遥のことを--。
「ずっと、忘れようとしても忘れられなかった。何でだよ……俺はあの三週間で仲良くなれたと思ってたのに、治ったら急にそっけなくなって……俺は……おまえのことを……」
「僕はただ責任を果たしただけだよ。誤解させたのなら申し訳ないけど」
微塵も興味がないとばかりに冷ややかに門前払いされ、カッと頭に血が上った。両肩に手を掛けて乱暴に背後の扉に押さえつける。ガシャンと派手な音があたりに響いた。肩に掛ける手に力を込めながら、睨むように、縋るように、感情の読めない漆黒の瞳を見つめる。
「少しくらい、楽しいとか嬉しいとか思っただろう?」
「どうして? 僕は面倒だとしか思ってなかったよ」
「じゃあ、何で……っ!」
何であんな気を許したような笑顔を見せたりしたんだ。そもそもあんなキスをするから忘れられなくなるんだ--そう言いたかったが口には出せなかった。グッと言葉を詰まらせて奥歯を噛みしめる。
それでも、遥は目を逸らさなかった。
まるで責められているかのように感じると同時に、劣情が刺激される。吐息がかかるくらいの至近距離で見つめられて気がおかしくなりそうだ。心臓はうるさいくらいに暴れている。なのに、彼は無表情を崩すことなく平然としているのが腹立たしい。
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